人工知能技術による第四次産業革命は様々に話題になるが、現在起きていることは一般に認識されている以上の大きな文明史的転換点となる可能性が高い。この変化がどれだけ急激に起きるかはまだ見通せない要素もあるが、100年後の将来を見据えた場合には、ここ数百年の社会の大きな関心事であった科学技術が、今我々がそれを認識している姿とは全く別のものになっているかもしれない。その結果、我々人間が社会や自分自身に投影している根本的な認識、そして価値観も変化する。

 

100年という時間は人間の想像力を超える

あらゆる作業が自動化される結果雇用が奪われるといった話や、人間が技術発展の速度について行けなくなる時点である技術的特異点の議論(シンギュラリティー:よく言われる機械の知能が人間を超える時点という定義は別の概念であり誤り。)はよく話題になる。

人間の集団的な想像力には限りがあるので、一般に遍満する(いわゆるバズる)議論はどうしても単純化されがちである。人間、社会、技術の3つの要素を考えた場合に、ほとんどの議論はこのうちの一つが大きく変化するものの、残りの2つには構造的かつ根本的な変化は起きないという前提でなされている。例えば、技術的特異点の議論では技術がとても速く進展し、社会と人間が取り残されるという話である。

しかし、これからの100年を見通すならば、100年という時間は人間、社会、技術の3要素が相互に影響を与えあって変化するのに十分な時間スケールである。何が起きるだろうか?

 

 

「科学」という言葉は意外と新しい

さて、それを考えるにはまず少し歴史の話をしなければいけない。

現在我々が「科学」と呼ぶものが成立したのは歴史的にはごく最近、三百年ほど前のことである。それ以前にも自然法則を考える学問はあったが、それはいわゆる自然哲学であった。

古代ギリシア以来、自然哲学は形而上学的な性質が色濃かった。つまり、実際的に役に立つ知識というよりは、世界がこのような姿をしているのはなぜか、を純粋に考える学問だった。自然哲学から経験主義的な一分派が独立して「科学」が成立したことによって、近代という時代が成立したと言っていい。

デカルトは対象を要素に分解し、要素のその性質から論理学や数学のような疑いなく明証的な手続きだけを使って全体を説明するという還元論的な方法論を確立した。カントは真、善、美というものがそれぞれ独立し自律性を持つということを主張した。ニュートンは微積分学という数学的体系を、物体に働く力の記述に用いることで天体や地上の物体の、未来の位置や動きを予測し説明出来ることを示した。

これらは後にはカルノーによる熱力学の理論、さらにボルツマンによる統計力学の成立などにつながってゆくが、この流れは第一次産業革命で、その根本の汎用目的技術(GPT:General Purpose Technology)となる蒸気機関や第二次産業革命における内燃機関の発達に深く関わっている。

 

技術とアートの離別、科学との結婚

ここで起きたことは根本的には何であろうか?それは「テクノロジー」の成立である。

テクノロジーとは「特定の分野における知識の実用化とそれにより得られる力」であるが、「特定の分野」と言えるような学問分野の分化とは、サイエンス(「科」学)の成立とはほぼ同義である。

テクノロジーは元々はテクネーというギリシャ語に学問分野を意味する接尾語を付けて17世紀ころに成立した言葉である。テクネーは元々は制作という意味であり、建築、料理、弁論術、美術、楽器演奏など人が営むあらゆる技術を示す言葉である。アートの語源となるラテン語であるアルスとも同源である。

つまり、全部一緒くたであった様々な学問分野のうち、自然法則を経験論的かつ形式的に記述する体系である自然科学、それを何か役に立つことに応用したのがテクノロジーである。

技術はどちらかというと工芸や建築の意味でのアートと近い時代が歴史的には長かったが、一心同体であったアートと技術の仲は近代以降急速に疎遠になった。そのかわりに技術は、「真、善、美」のうち「真」だけが独立し、経験論的アプローチだけが肥大化した科学と結婚した。

これが、現在我々が通常意味する意味でのテクノロジーである。「科学技術」と言ってもよい。

 

科学と産業革命の時代である近現代という時代の根本がここにある。つまり、自然法則の形式的な理解が巨大な利潤と効用に結びつくという人類史的な大発見である。

この大発見を受け止める語彙はそれまで無かった。それを発明したのがヨゼフ・シュンペーターの「イノベーション」という言葉である。

イノベーションとは生産手段や資源、労働力などを新しいやりかたで結合すること(新結合)であり、新技術の開発だけでなく組織や働き方、新市場開拓も含むが、その目的はいずれも経済活動の拡大であると定義される。そして、科学と技術の組み合わせそれ自体が、歴史上我々が発明した中でも最大級の「新結合」であっただろう。

 

 

AIが発見した科学的知識は誰のもの?

さて、現代に戻って、人工知能をはじめとする情報技術の発展により起きることの根本は何であろうか。

人工知能技術はその根本では知的労働の自動化技術である。ここで言う知的労働は、写真の分類や会計処理、自動運転といった単純知的労働も含むが、その極限では製品開発や科学研究のような高度な研究開発活動も入る。いわゆる人工知能駆動型科学である。

 

例えば、マンチェスター大学のロス・キング教授はロボットを用いて機械が自律的に酵母遺伝学実験を計画、実行、測定解析、推論による仮説生成、そして次の実験計画という一連の研究サイクルを実行するロボットシステムを開発し、それまで知られていなかった3つの新規遺伝子を同定した。コーネル大学のリプソン教授は、力学的カオス系の一種である二重振り子の軌道をコンピュータに接続したカメラで観察させ、ハミルトニアンやラグランジアンといった既知の保存則・物理量を自力で再発見させることに成功した。また、私が直接関わっている研究として、熟練したテクニシャンにしか出来ない匠の技であるiPS細胞の培養操作をロボットに実装し、「匠」の判断を深層学習に例示して「写し取る」ことで完全に自律的に実行するシステムを構築している。このシステムでは、人間の判断レベルを出発点として、人工知能システムが自動最適化を実行してこれまで人間が到達出来なかったレベルにまで細胞培養の成功率を上げることを目指している。

これらは研究開発を構成する様々なプロセス全体の自動化という目標に向けてはまだまだ芽が見え始めた程度の段階だが、今後の技術発展のトレンドを考えると科学研究現場におけるロボット技術や情報技術の浸透は、ある時点で急速に進むと思われる。

 

ここで問題になるのは、人工知能が発見した科学的知識は誰のものかということである。知識の所有権ではなく、知識発見、そして利用の主体の問題である。

 

「AIの科学」の誕生

自然科学とは、本質的に分散的で同時並行的な自然現象を、記号的かつ逐次的である人間の科学的知識体系にどうトランスレートし、共有するのかという翻訳のプロセスである、と理解出来る。現代科学の多くの問題が非平衡で非線形かつ高自由度なシステムである生命や高分子、生命、社会や生態系などを対象としている中で、同時に把握できる変数の数がたかだか数個しかない人間の認知能力を超えたパターンや法則発見に、人工知能技術を利用するということは自然な流れである。

このような兆候はすでにいくつかの研究で現れてきている。たとえばメリーランド大学のグループは、蔵本-Sivashinsky方程式(力学変数の複素位相に対する非線形な時間・空間の偏微分方程式の一種。その解が時空カオスを示す方程式。)を利用して炎の燃え広がり方の高自由度(多変数)モデルを構築した。通常この種のモデルは力学的カオス系であり、数式を解くような解析的な手法や数値シミュレーションで挙動を予測するのは難しいが、脳内の神経結合を模したニューラルネットの一種であるリザバー計算という手法を用いて高精度に挙動を予測することに成功した。

ここで重要なことは、このモデルは対象となる系を記述する支配方程式を理解していない、少なくともそのような方程式を明示的に用いていないということである。それでも外形的な入出力関係としては高精度な予測を行う。

この研究は、よく定義され比較的単純な支配方程式で記述されるが表現型が豊かな系(創発的複雑性)を対象としているものの、その含意としては支配方程式自体が複雑でモデリング自体に困難が伴う生命や社会のような系(存在論的な複雑性)を扱う上での突破口となる可能性を示している。しかしながら、機械が獲得した予測能力は機械の中で閉じたものになり、人間の理解にはそのままでは貢献しないのである。

 

当然のことながら、予測したパターンを記号化し、抽象化、そしてその知識を他の文脈や問題に転移し利用出来るという意味での「理解」にまで転化出来るような人工知能の技術の開発は、多くの研究者が取り組んでいるところである。しかし、仮にそのような技術が実用化されたとしても、機械が獲得した「理解」が言語や数式などを用いて抽象化したレベルでも人間の認知能力で把握出来ないものになったとしたら、それは「AIの科学」ではあっても人間の科学ではなくなる。

 

科学と技術の離別、アートとの再会

もしここまで書いたような状況が今後の情報技術進展の流れの中で向かう必然だとすると、その時起きるのは「科学と技術の離婚」であろう。

この乖離は近代そして後近代とも位置づけられる現代という大きな時代の終焉と、まだ名前の付いていない新しい時代への突入である。つまり、現在起きている情報技術、人工知能技術の台頭は単に新技術、イノベーションの一例ではなく、100年後の我々はもう「イノベーション」や「テクノロジー」という言葉を使わない、現代とは地続きでない別の時代を生きているであろうことを示しているのかもしれない。

 

テクノロジーが生活レベルや経済活動、物事の価値までを決定している現代では、我々の関心は何かを「どうやって(how)」実現するかに向けられている。それはしかし、研究開発の実行に膨大なコストがかかるからである。

研究開発にまで自動化の波が押し寄せた将来には、人々の意識の中からテクノロジーは薄れ希薄化、透明化する。どんな価値が生まれるかは「何を望むか(what)」の時点で決まり、「どうやってそれを為すか(how)」の意味は相対的に薄くなってゆく。そのような時代では「技術」は限りなく本来の未分化で多義的な意味での「アート」に近づいてゆく。

その一方で、技術とは現在よりも距離を取った科学自体は、「人間の理解とは何か」が大きな問題として浮上してくる。これまでの自然科学は形式性と論理思考を軸としてきたが、将来の自然科学では認知科学がその中心の一角を占めることになるであろう。

執筆者プロフィール

高橋 恒一
高橋 恒一理化学研究所生命機能科学研究センターバイオコンピューティング研究チーム チームリーダー
慶應義塾大学特任教授、大阪大学招聘教授、全脳アーキテクチャ・イニシアティブ理事・副代表などを兼務するほか、自動実験計画技術を開発する理研発ベンチャーであるエピストラ株式会社を共同創業。理化学研究所未来戦略室イノベーションデザイナー。科学技術振興機構未来社会創造事業「ロボティックバイオロジーによる生命科学の加速」研究開発代表者。
最新の投稿