新型コロナとシンギュラリティ

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松田 卓也

松田 卓也

1943年大阪生まれ。1961年京都大学理学部入学、1970年京都大学大学院理学研究科博士課程修了、理学博士、1970年京都大学工学部航空工学科助手、1973年同助教授、1992年神戸大学理学部地球惑星科学科教授、2006年同定年退職。英国ユニバーシティ・カレッジ・カーディフ応用数学天文学教室客員教授、国立天文台客員教授、日本天文学会理事長などを歴任。現在ジャパン・スケブティックス会長、AI2オープンイノベーション研究所所長。

1.要約

 

新型コロナ感染症は大局的、客観的にみれば恐ろしくない。しかし微視的、主観的に見れば恐ろしい。しかしその恐ろしさの原因は、人間が未知のものを恐れる性質のためである。だから病気の解明が進めばだんだんと恐ろしくなくなる。

しかし新型コロナが人類社会に与えた影響は甚大である。3密や対面のコミュニケーションを避けた、リモートワークを主体としたリモート社会が定着するであろう。もしそうなら、コンピュータと人間を密に結合してリモート・コミュニケーションに最適化した人間が有利になる。

私はその究極形態として、人間の脳とスーパー・インテリジェンス(超AI)を密に結合したサイボーグ人間を考える。それは一種の超人類であり、ユヴァル・ノア・ハラリの唱えるホモ・デウスかもしれない。人類は将来、普通の生身の人間と、サイボーグ化した超人類に分裂するかもしれない。人間のサイボーグ化についての技術的な可能性についても論じる。

 

2.新型コロナは恐ろしくない

 

新型コロナの恐ろしさを、大局的、客観的に考えよう。大局的とは時間的、空間的に大きな視点で見ることだ。まず時間的な比較を考える。そのために1918-1919年に流行したスペイン風邪と比較しよう。スペイン風邪による死者数には様々な説があるが、世界では4000-5000万人程度と言われている。1億人という説もある。当時の世界人口は18-20億人であると推定されている。死者数を5000万人、世界人口を20億人とすると、世界人口の2.5%がスペイン風邪で亡くなったことになる。一方、日本での死者数は39万人といわれ、当時の人口5500万人とすれば、日本の人口の0.7%が亡くなったことになる。

さて新型コロナの死者数は、現時点(2020年9月15日)で、世界では932,997人である。簡単のために100万人としよう。世界人口を77億人とすると、死者数の割合は0.013%である。日本の場合、死者数は1442人で総人口を1.26億人とすれば、0.0011%である。

この数字で言えることは、スペイン風邪は死者数で見て、世界では新型コロナの約200倍、日本では600倍怖かったことになる。もちろん新型コロナはまだ収束していないので、死者数はこれからも増えるであろう。しかし今後、死者数がかりに10倍になったとしても、スペイン風邪は新型コロナの20-60倍怖いことになる。逆に言えば、新型コロナ感染症はスペイン風邪に比較して、怖さは0.17-0.5%である。例えば死者数が現在の10倍になったとしても、1.7-5%の怖さである。つまり結論として言えることは、新型コロナ感染症はスペイン風邪と比較すると、ほとんど問題にならないのである。

 

3.新型コロナは日本を含む東アジアでは特に恐ろしくない

 

次に空間的な比較を考えよう。具体的には新型コロナ感染症の人口100万人あたりの死者数の国別比較をしよう。とくに欧米と、日本を含む東アジア、東南アジアと比較する。

ジョン・ホプキンス大学のワールドメータによると、欧米主要国の人口100万人あたりの死者数は現時点では、米国600、英国613、フランス474、ドイツ113、イタリア589、スペイン638である。

一方、アジアでは日本11、中国3、韓国7、台湾0.3、フィリピン42、タイ0.8、マレーシァ4、インドネシア32である。総じてアジアは欧米に比べて単位人口あたりの死者数が1桁から2桁少ない。日本を主体として見ると、欧米の主要国と比べて60分の1程度なのだ。

まとめると新型コロナについて、単位人口あたりの死者数で比較すると、日本ではスペイン風邪の0.17%の恐ろしさである。また欧米と比較して1.7%の恐ろしさなのだ。少なくとも日本では、客観的に見て新型コロナ感染症が怖いといえるであろうか?

 

4.新型コロナが恐ろしい理由

 

 

ところが毎日のニュースを見てもコロナばかりであり、人々の行動を見ても、ほとんどの人がマスクをして、外食や旅行を避けて、コロナ主体の生活を送っている。

日本では死者数がこれほど少ないにも関わらず、政府のコロナ対策に対する批判の度合いが世界的にも群を抜いて高いといわれている。日本人の怖がり方は世界的に見ても異常に高い。もっとも世界の人々も、日本ほどではないが新型コロナを恐れている。これは客観的に見れば、不合理なのである。なぜそんなに怖がるのか。

その理由の一つは、人間は基本的には合理的な思考に基づいて行動しないことにある。

人間は主として感情主体、情緒的な思考をしているのである。そのことは、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンのいう「速い思考(感情的思考)」と「遅い思考(論理的思考)」の二元論でよく説明できる。新型コロナは遅い思考で論理的に考えると怖くないが、速い思考で情緒的に考えると怖いのである。人間はほとんどの時間を速い思考で済ませている。遅い合理的思考の極限が数学的思考だが、これが得意な人間は極めて限られている。だから人々は怖がるのだ。

人間は未知なことを恐れる。「幽霊の 正体見たり 枯れ尾花」という川柳がある。昔の人が、明かりのない夜道を歩いていて、前方に正体の知れないものが見えて、幽霊に違いないと思い、怖がった。しかし正体を調べると、なんのことはない、枯れたススキだったという話だ。現代では幽霊は出ない。そのかわりに新型コロナが出るのである。もっとも幽霊は完全に想像上の産物で、実害はないが、新型コロナには実害はある。それにしても怖がり方は異常なのである。

それは過去にも何度も例がある。例えば一時、マスメディアでも大騒ぎした狂牛病がある。今から考えると、さまざまな原因による単位人口あたりの死亡数で比較すると、狂牛病の脅威度は30位程度で、水より危険でないのである。風呂で溺れる人は毎年一定数いるので、水は怖いのだ。しかし人々は水を恐れることはない。それは水に慣れているからなのだ。つまり慣れてしまえば怖くなくなるのだ。そして現在では狂牛病は話題にもならない。

新型コロナ感染症が大きな話題になってすでに半年以上が経過している。その間、膨大な研究がなされた。病気の性質も治療法もだんだんとわかってきた。ワクチンもすぐには完成しないだろうが、いずれ目処は立つであろう。つまり新型コロナはだんだんと未知の病気ではなくなる。だからだんだんと怖くなくなる。

新型コロナの今後だが、仮にワクチンが完成したとしても、天然痘のように絶滅することはないであろう。インフルエンザや風邪と同様に、つねに身近に存在する病気の一種になるであろう。人々が風邪をあまり気にしないのと同様に、数年後には「あっ、コロナにかかった、ハハハ」という状態になると思う。

新型コロナ感染症を怖がる第二の原因はマスメディアにある。マスメディアは、いつでも騒ぎを盛り立てることで成り立っている。だから新型コロナは怖いほうが、マスメディア目線ではよいのだ。

第三の原因は新型コロナの専門家にある。例えば感染疫学の専門家は現在、よい意味でも悪い意味でも、世間の注目の的である。もし新型コロナがはやらなければ、彼らが社会の注目を浴びることはなかった。だから彼らは脅威を必要以上に宣伝するのである。もっともこれは、職業上知り得た科学的事実を出来るだけ広く、社会に伝えたいとする職業的使命感とも裏腹と言える。

第4の、これが最も重要な原因と私はおもうのだが、新型コロナの被害が欧米で大きかったことだ。

もしこの病気がエボラ、MERS、SARSのように欧米で流行しなかったら、欧米のメディアも国民も、ここまで騒がなかったであろう。新型コロナの流行の初期は、中国、日本、韓国などのアジア諸国に限定されていた。だから欧米のメディアは高みの見物であった。しかしそれがイタリアに飛び火して、スペイン、フランス、英国そしてついに米国に飛び火するに至って、欧米のメディアは大騒ぎになった。現在の世界は、良くも悪くも欧米中心の世界なのだ。だから欧米人が怖がるものは怖いのだ。

ただし新型コロナが怖くないと述べたのは、巨視的、客観的に見ての話である。微視的、主観的にみれば話は別だ。コロナの致死率が低いといっても、それは平均としての話で、後期高齢者の私が一度感染すれば死亡する確率は宝くじに当たる確率よりははるかに高い。だから私としては、新型コロナは怖くないと思っても、3密を避け、マスクをして、対面コミュニケーションを最小限に限定している。

それが社会的なニューノーマルとなっているからだ。いわばそれが新しいエチケットになってしまったのだ。

 

5.新型コロナは世界を変える

 

新型コロナ感染症は客観的に見れば、それほど怖いものではないと述べた。しかし、新型コロナにより世界は大きく変わったし、今後もさらに変わっていくだろう。社会は個人で構成されていて、個人的、主観的に怖いものは怖いのだ。

当初に一番被害を受けたのは観光業であろう。観光地だけでなく、飛行機会社が打撃を受け、それにともない飛行機を作る航空機製造会社も打撃を受けた。クルーズ船業界は多分、消滅するであろう。鉄道、タクシーを含む交通産業はすべて大打撃を受けたのである。

また外食産業も打撃を受けた。さらにスポーツや芸術も大きな打撃を受けた。人々が音楽を楽しむことはなくならないだろうが、危険を冒してコンサートに行くであろうか。アーティストはこれからどうして生活していくのであろうか、他人事ながら心配だ。映画もなくなることはないだろうが、映画館で映画を見ることは少なくなるだろう。

教育も大きく変わる。学校は対面授業を制限してリモート講義にシフトしつつある。学校がなくなることはないが、特に大学人には危機であろう。対面講義が少なくなり、リモート講義が主となると、講義法も大きく変わる。ビデオ講義が主体となれば、今のように多くの講師は必要なくなる。一つのビデオ講義を世界中の学生が見ることができるようになれば、つまらない講義は淘汰されるだろう。実際、米国では講師の大量解雇が始まっている。リモート講義が主体となれば、大学のキャンパスも都心の一等地に置く必要がなくなる。

私の属する科学の世界でも学会や国際会議がリモート主体となれば、わざわざ遠くに出かけなくても参加できる。それはよい面もあり、高い航空運賃を払わなくても国際会議に簡単に参加できるのだ。しかしそのことは、会場を貸す側や、ホテル、交通機関にとっては損失となる。

一番大きな影響を受けるのはビジネスの世界であろう。物理的、肉体的な作業を伴うビジネス、つまり工場とか販売業、サービス産業がリモートになることはないだろうが、情報処理が主体の知的、事務的仕事はリモートになる。実際、知人の会社もリモート勤務主体になり、通勤手当が廃止された。社長も温泉地の別荘を買ってリモート勤務を始めた。会社は仕事の面では減収なのだが、通勤手当など必要経費の削減のために、逆に利益は増えたと聞く。オフィスの需要が減るので、都心への集中が減り、電車などの交通機関も空いてくるであろう。

ともかく新型コロナを人々が怖がることにより、世界は大きく変わったし、今後も変わらざるを得ない。新型コロナはスペイン風邪より病気としては軽微であったとしても、その社会的影響は比較にならないほど大きい。そもそもスペイン風邪のことを人々はすっかり忘れていた。スペイン風邪の当時、第一次世界大戦が戦われた。社会的な影響で言えば、第一次世界大戦のほうがスペイン風邪よりはるかに大きい。しかし死者数で言えば、スペイン風邪の方が大きいのである。つまり人間の心理や行動は合理、論理では測れないのである。

 

6.リア充からバチャ充の世界へ

 

 

人間は社会的生物であり、リアルなコミュニケーションは必須である。リアルなコミュニケーションには、対面しての会話とか、握手やハグなどの肉体的接触がある。いわゆる3密とは、密閉された空間に、人々が密集して集い、大声で話すことである。3密は従来からよくあることで、悪いことではない。しかし現在ではその常識は通用しない。またマスクをすることは、表情が読みとりにくいので、ある意味失礼なことで社会的には推奨されていなかった。

これらの常識が新型コロナのせいで大きく変わった。神戸大学の塚本昌彦教授の言葉では、リア充(リアルが充実した生活)からバチャ充(バーチャルが充実した生活)への転換である。もっとも塚本教授は、人間はリア充の方が良いとしている。しかしリア充の生活が危険に満ちているとすれば、バチャ充をめざすのも仕方ないのである。

コロナ感染のダイナミクスの研究によれば、家族、恋人、友人、同僚など常に一緒にいるグループのメンバー同士のリアルなコミュニケーションだけなら安全だが、普段は接触しない第三者と接触をすることによりウイルスは拡散するという。普段会わない家族も同じことだ。いつもよく会うグループメンバーとだけ対面コミュニケーションと肉体的接触をしている限り安全である。そこで新型コロナに感染しないためには、リモートなバーチャルなコミュニケーションに限定すればよい。

メンバー外の人とリモートなバーチャルなコミュニケーションしかできないのであれば、それをいかに充実させるかが、今後の重要な技術的課題になる。現在、私は家族とだけ対面の会話をして、私の属する研究所の勉強会はZoomで行なっている。家に閉じこもるのは健康に良くないので出歩くが、バスに乗るのは避けて研究所には歩いていく。河原を歩くときはマスクを外しているが、スーパーに入るときはマスクをする。していないと、いつマスク警察に摘発されるかわからない社会である。

 

7.リモート・コミュニケーションの技術的な諸問題

 

対面での勉強会からZoom会議に転換して分かったさまざまな問題点がある。例えば顔のビデオ表示であるが、顔を出すとどうも帯域の問題があるらしく、通信が不安定になる。そこで我々の勉強会では顔を出さないことにしている。しかし人とのコミュニケーションには、顔の表情が重要な働きをすることはよく知られている。その意味で顔の表示は重要だ。帯域不足の問題は技術的な問題であり、今後5Gの世界になれば解決されるだろう。

世界の多くのビデオ講義を聞いて気がついたさまざまな問題点がある。顔の表示がない講義は、講師の意図が伝わりにくい。顔を出す場合、多くのケースでは画面の隅に小さく表示されている。しかしそれでは、表情が分かりにくい。画面全体に顔が表示されるのが望ましい。しかし顔と、文字を同時に表示するにはテクニックが必要だ。私が聞いた広島大学の玉木先生の機械学習の講義では、工夫を凝らしてパワーポイント・ファイルの表示と、顔の表示を重ねている。

最近、発見したProf. Knudsonという若い女性の機械学習の講義では、透明な大きなガラス板に字や式を書いて説明していた。カメラはガラス板の裏にあるはずだから、本来、字は反転して見えるはずだ。それが正常に見えるのは、カメラの側でソフト的に反転しているのだろう。そのことが分かったのは、教授が一見、左手で書いているように見えたことだ。なかなかの工夫だと思う。

多くの講義はパワーポイントなどを使って印刷された文字を示している。私はそれよりは、従来の講義のような、講師の手書きの方が良いと思う。そのほうが人間味があると思う。パワーポイントで次々とスライドを表示されると理解が追いつかない(もっとも、その問題はビデオを一時的に止めることで解決できる)。昔受けた大学の講義では、先生が黒板に次々と式を書き、学生はそれを書き写すのに必死で、とても話を聞く余裕はなかった。また先生が黒板に字を書くと、背中に隠れて見えないのでイライラしたことが多い。現在のビデオ講義でも、黒板に字を書く限りは同じだが、それはビデオを止めることで解決できる。

私は勉強会で講義をする場合、iPadにApple Pencilで字を書いて、それを共有している。Apple Pencilでは筆圧に応じた太さの字が書けるので、印刷した文字ではなくより人間的な手書き文字になる。講義をより相互的にするためには、受講者も共有画面に字が書き込めれば良い。リアルな白板を使った勉強会のときは、それが容易であったが、リモート講義の場合はなかなか難しい。共有画面に、Apple Pencilを使わずにマウスで字を書くのは至難の技だ。

講義時間の問題がある。大学の講義は90分が標準だ。欧米の大学の講義をビデオで視聴して感じたことは、長時間の講義は地獄だということだ。90分間も注意を集中することは難しい。ビデオ講義の場合は、止めて休憩を挟むことで解決できる。しかしそれよりは、意識的に短く切った講義の方が効果的である。実際、欧米の工夫されたビデオ講義を見ると、最長で15分程度になっている。もっと短いものもある。90分の1回の講義よりも15分の6回の講義の方が、理解が進む。短く切った方が、受け手の満足感が増すのである。

視線の問題がある。人と対面コミュニケーションをする場合、人の表情は重要である。特に「目は口ほどに物を言い」というように視線が重要だ。視線を合わせることを、プレゼン理論ではアイコンタクトというが、アイコンタクトをすることが、意思を伝える上で重要なのだ。先のProf. Knudsonはまっすぐカメラを見て話しているので、その点でも彼女の手法は優れている。

以上述べたようにビデオによるリモート講義は、新型コロナのために仕方なく普及した面があるが、工夫を凝らしたビデオ講義は、リアルな講義よりも優れている。今後、新型コロナが収束しても、従来の大学のような、大教室での一斉講義は無くなるか、減るのではないだろうか。私なら受けたくない。

リモート講義は、新型コロナのせいで、今や一般的になった。その講義手法は様々である。上に述べたように、現状ではProf. Knudsonのようなやり方が最も良いと思う。現状のリモートなコミュニケーションはPCやスマホ、タブレットを使っている。最近Zoomでの会議が増えたので、PCの場合、Webカメラや、ヘッドセットをつけることが多い。私もそれらを買った。

 

8.バーチャル・コミュニケーション

 

リモート会議の場合、もっと臨場感を増すには、会議自体を完全にバーチャル化できたら良い。私がイメージしているのは、押井守監督の劇場版アニメ『イノセンス』である。これは士郎正宗原作の漫画『攻殻機動隊(こうかくきどうたい)』を映画化したものだ。この漫画は多く映画化、アニメ化されていて、ハリウッド製の実写版もある。その『イノセンス』の一場面で、公安9課の荒巻課長がバーチャルな会議を招集するシーンがある。公安9課の課員は全員、脳にチップが埋め込んであり、眼前に他の人々がいるかのごとく見えるのだ。

脳にチップを埋めるなど現状では荒唐無稽に思えるかもしれない。

しかしそうでもないのだ。実際、米国のテスラ社を率いるイーロン・マスクはニューラリンク社という会社を作り、ニューラルレースという脳に埋め込むチップを開発している。2019年7月17日に最初の公開発表があり、実際にチップが開発されたこと、それをネズミや猿に成功裏に埋め込んだことを発表した。2020年8月29日の第二回の発表では、豚の脳にチップを埋め込むことに成功したと発表した。動き回る豚の脳の神経細胞からの信号をリアルタイムでモニターしている。その信号を外部に取り出しAIが解析すれば、豚が何をしようとしているかがわかるのだ。この技術は将来的には例えば脊椎を損傷して手足が動かせない人間の大脳の運動野に埋め込んで、大脳の運動指令を取り出して、それを直接、手足の筋肉に伝達することが考えられている。

頭蓋骨を切り開いてチップを入れる手法を侵襲的手法という。それとは逆に非侵襲的な手法には、脳波を測定するものがあり、例えば車椅子を動かすことにはすでに成功している。しかし非侵襲的な手法では、脳から得られる情報量には限界があり、やはり侵襲的な手法には敵わないだろう。

侵襲的な技術が成熟すれば、この種のチップを使って神経細胞から信号を取りだすだけではなく、逆に知覚信号を脳に送り込んで、あたかも知覚しているように見せかけることができるはずだ。例えば視覚野に信号を送って物を見るとか、体性感覚野に信号を送って、触覚をシミュレートすることができるだろう。触覚をシミュレートすることは特に重要だ。というのも視覚と聴覚に関しては、現状でもその信号を遠方に送ることは簡単にできているが、触覚や味覚、嗅覚はできていない。触覚をリモートに送ることができれば、これはバーチャル革命となる。人間同士の肉体的接触がリモートで可能になるからだ。

 

9.人間とスーパーインテリジェンスの直接結合

 

今までの話は脳内にチップを埋め込んで、自分の手足を動かしたり、他人とコミュニケーションしたりすることに使うことだった。しかし私は究極的には、高度な知能を備えた人工知能(超AI、スーパーインテリジェンス、SI)と脳を直接に結ぶことを考えている。

なにか知的に高度な問題が与えられた時に、人間はそれを頭の中でAIに投げて、AIからの解答を脳が直接、視覚とか聴覚の形で受け取る。例えば計算結果や図、グラフが脳内で直接に見聞きできるのだ。それは他人からは見えないし聞こえない。現状では人間とコンピュータ上のAIはPCやスマホを通してコミュニケーションしている。それを脳とコンピュータを直結することで、直接行うのだ。

もし人が他人から何か質問された時に、自分の脳に直結したAIに解答を求めて、それに基づいて答えたとすれば、他人から見れば、その人間が答えたことと区別がつかない。究極のカンニングだが、いわばその人間の知能が強化されたことに相当する。これを知能増強と呼ぶ。人間はすでに自動車にのり速く走る、眼鏡をかけて視力を補強するなど肉体増強はすでに行なっているのだ。だから知能増強して悪い理由はない。

シンギュラリティという概念がある。さまざまな定義があるが、そのひとつに将来、人工知能が人間並み、あるいはそれ以上に高度な知能を備える時というものがある。それに対して一部の論者は、AIが人間と同じような知能を備えることはありえないという。それには一定の真理もある。人間の脳は生まれてから成人するまでに、感覚器官を通じて外部世界とコミュニケートして、膨大な知識を獲得している。この事前知識の体系を私は世界モデルと呼ぶ。

私は人間の脳はベイズ理論で理解できると考えている。これをベイズ脳理論と呼ぶ。私は、脳はベイズ推定を行う一種の機械であると考えている。ベイズ推定をするには、事前確率と呼ばれる事前知識、つまり世界モデルが必要である。ベイズ推論の理論では、この世界モデルを生成モデルと呼ぶ。私は生身の人間のもつ生成モデルと、AIのもつ生成モデルは、両者の生まれてからの経験が根本的に異なるので、同じではあり得ないと思う。

だとすると人間の考え方、感じ方と機械の考え方、感じ方は根本的に違うと思う。その意味で、人間そっくりの機械を作ることは、不可能とまでは言わないにしても、極めて困難だと思う。

それは、鳥を作ることの困難さに例えられる。人間は空を飛びたいと思った。実際に空を飛んでいるものは鳥である。そこで鳥の飛行の原理を研究して、人間は飛行機を作り上げた。出来上がった飛行機は鳥よりもはるかに高く、速く飛ぶことができる。その意味で飛行機は鳥を超えた。しかし人間は鳥そのものを作ることには成功していない。飛行機は木に止まることができず、子供を育てることもできない。しかしそんなことは問題ではないのだ。我々は空を飛びたいのであって、鳥を作りたいのではないのだ。

同じことが人間並みのAIについても言える。

私は機械に人間にはできないような高度な思考をさせたいのであって、機械が余計な感情(それは人間に対する悪意かもしれない)や意識を持つことを求めていない。私の考えでは、機械には達成困難なこと、例えば愛情や共感を持つこととか、感情を持つとかを機械に求める必要はないと思う。

それは鳥で言えば子育てをする能力みたいなものだ。飛行機にその能力を求める必要はない。むしろ、機械には余計な感情や意識は持たせない方が良い。もし機械が感情や意識を備えると、それにともなうとてつもなく厄介な問題が発生する。例えば機械に人権はあるのかとか、AIが人間に反抗するとか。私の考えではAIには純粋に思考する能力のみを求めれば良い。

それ以外は人間が担当すれば良いのだ。その方法が、脳埋め込み型のチップを用いた人間の脳とAIの直接的カップリングによる知能増強なのだ。このようにして知能を増強したサイボーグ型の人間は、いわば超人類と言えるであろう。

そもそもイーロン・マスクがニューラルレースを開発している目的は、超AIに世界を乗っ取られないようにするためなのだ。彼は英国のケンブリッジ大学の故スティーブン・ホーキング教授やオックスフォード大学のニック・ボストロム教授同様に、超AIの危険性を訴えてきたのだ。

私は人間の脳と思考機械としての超AIの直接に結合して知能増強した超人間が、人類進化の次の段階であると考えている。これはイスラエルの歴史家であるユヴァル・ノア・ハラリが人間の未来を描いた『ホモ・デウス』という本にあるホモ・デウス(神人間)に相当するかもしれない。ハラリは未来の人類は、ホモ・デウスと普通の人間に分裂するかもしれないと考えている。ここで問題なのは、神人間たるホモ・デウスになれるのは一部の金持ちのエリートだけかもしれないということだ。

イーロン・マスクのような進取の気象に富んだ金持ちの超エリートがまずホモ・デウスになるのではなかろうか。

 

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1943年大阪生まれ。1961年京都大学理学部入学、1970年京都大学大学院理学研究科博士課程修了、理学博士、1970年京都大学工学部航空工学科助手、1973年同助教授、1992年神戸大学理学部地球惑星科学科教授、2006年同定年退職。英国ユニバーシティ・カレッジ・カーディフ応用数学天文学教室客員教授、国立天文台客員教授、日本天文学会理事長などを歴任。現在ジャパン・スケブティックス会長、AI2オープンイノベーション研究所所長。