創造性の因果律

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原島 大輔

原島 大輔

著書に、『AI時代の「自律性」』(共著、勁草書房、2019年)、『基礎情報学のフロンティア』(共著、東京大学出版会、2018年)など。

1. 創作の原因としての作者

 

およそあらゆる人間の創作には技術が関係している。これほど科学技術に囲まれながら暮らしていると、なおさらそのように実感される。しかし、人間の創作に技術が関係しているというとき、いったいその関係とはいかなるものなのか。これは考えてみればみるほどになかなか難しい問いではないか。創作において人間と技術はそれぞれどのように位置づけられるのか。技術と人間の関係はさまざまに捉えられてきた。だが、ことに創作という場面においてみるならば、この関係性はそう簡単には把握し難いところがある。

もっとも、実際の創作の場面で具体的に人間と技術が関係しているさまを描写してみるということであれば、さほど悩むまでもなさそうである。たとえば、この文章のように文字を用いた創作を考えてみれば、技術の違いがいかに作品の出来の違いを左右するかは一目瞭然である。完成品が、手書きの肉筆からなるのか、それとも印刷された活字からなるのか、あるいは画面に表示された文字からなるのか、それによって見栄えは文字通りまるで別物になる。それに、文字を書く道具が、毛筆なのか、万年筆なのか、鉛筆なのか、ペンなのか、はたまたキーボードなのか、タッチ画面なのか、それによって文体まで影響されるかもしれない。

あるいは、昨今ますます日常的に活用されるようになってきたオンラインの共同作業を考えてみれば、ある技術がなければそもそも実現しえなかった創作というものがあることも明らかである。たとえば、リモートでオーケストラが合奏する場合[1]、そこに必要不可欠な技術はインターネットからパソコンから枚挙にいとまがない。だいたい楽器そのものからして、これがなければどれほどの音楽がありえなかったことであろう。

はたまた、人工知能が作品を創作したというような言い方をときにひとがするのを考えるにつけ、技術を創作の行為主体と見なす考え方もあるかもしれない。この場合、技術が人間の創作を補助しているというよりは、たとえば人工知能がうまく機械学習できるように人間がデータを調整する場面のように、むしろ人間が技術の創作を補助するかたちになっている。そこでは人間による補助は、あくまで人間が作品と呼びうるものを技術が出力するよう方向づけているだけであり、それなしでも技術は技術なりに何らかの産物を、たとえそれが普通ひとは作品と呼ばないであろうようなものであったとしても、出力しているのだから、これを技術が創作していると言ってもよいではないかというわけである。

こうしてみると、技術は創作において作品が産み出されるための何らかの原因性を担っているように見えてくる。見ようによっては、何らかの原因性どころか、作品が産み出されるための決定的な原因性が、人間よりも技術の方にあるようにさえ見えてくる。作品が産み出された原因つまり作者は、人間なのか技術なのか。あるいは、人間と技術で、創作の原因性を何らかの比率で分担しているのだろうか。

しかし、このように創作を、作者と作品との間の因果関係として考えるならば、この原因たる作者を厳密に特定しようとすればするほど、事態は爆発的に捉え難くなる。というのも、ある作品をもたらした原因を特定しようとすると、その因果関係はどこまでも遡行しうるしどこまでも拡散しうるからである。

かりにある技術にある創作の原因があると断定したとする。しかし、その技術はそもそも誰かによって発明されたものである。そうすると、厳密に考えるならば、その技術を発明した者にも、この創作の何らかの原因性があると見なければならないのではないか。なにしろ、その技術を発明した者がいなければ、そもそもその技術はありえなかったのである。そうすると、技術はどれも、相対的に原因のような役割を担うことはあるにしても、あくまで因果関係の中継点である。

ところが、他方で、かりにある人間が原因だと断定しようとしても、その人間に創作をさせた原因をさらに考慮しなければならない余地もまたつねに残る。たとえば、それはその作者が自覚的にか無自覚的にか多かれ少なかれ影響を受けた、ある別の作品かもしれない。そうすると、やはりその作品にもまた何らかの原因性があり、さらにその作品の作者にもあると見なければならない。そして今度はその作者に創作をさせた原因は何か、となる。こうした因果関係の連鎖はどこまで遡ればよいのか。もとを正せばいつかどこかでこれが真に最初の端緒であるといえるような究極的な原因に到達することができるのだろうか。

それに、この人間が創作をしたときの境遇にも何らかの原因性を考慮すべき余地がある。それは社会的な条件かもしれないし、物質的な条件も無視できない。たとえば、ある人間の身体の物質的な条件とその人間の行為との関係についてはまだ学問的にはわからないことばかりであるとはいえ、少なくとも物理的に考えるならば、物質的な運動は宇宙全体の物理的状態と物理的法則の決定論的ないし確率論的な因果関係の網に巻き込まれているのである。唯物論的には、人間の行動はもちろんのこと、技術の機械的な作動であればなおさら、それは周囲の条件と所与の法則に従っている。何かを原因と断定した途端、それがつねにそれ以外のすべてのものによって引き起こされていることが明らかになる。厳密に考えようとすればするほど、因果関係の網はこの宇宙の果てまで広がりはじめる。この無際限をどこかで制限する原因の境界などあるのか。

つまり、いわば通時的にも共時的にも、あたかも原因は特定を許さないかのようなのである。かりに、ある創作に関与したさまざまな要因一つ一つにそれぞれ原因性の程度があると考えたとして、そうした要因の範囲を画定することはできるのだろうか。忘れてはいけないが、何かがなかったことや起こらなかったことのおかげで、何かが可能になったということもあるのである。そうすると、ありとあらゆる物事ばかりか、なかった物事のすべてにもまた、それぞれ何らかの原因性があると考えなければならないのではないだろうか。いったい、このような因果関係の無限の遡行と拡散をどこかで断ち切る、恣意的ではなく合理的な理由が、この世界のどこかにあるのだろうか。

ようするに、問題は因果性である。つまり、創作における人間と技術の関係を考えるとき、因果性の問いを避けて通ることができなくなるところに困難がある。そもそも因果性というのは、それ自体がいったい何であるのかということさえ、大変な問いである[2]。もしかすると、世界が因果律に支配されていることなど自明であるとひとは言うかもしれない。ましてや因果律とは何であるかということなど、ことさら取り上げて問題にするまでもなく理解していると思うかもしれない。だが、そうだろうか。

世界が因果律に従っているということは、どのように証明できるのだろう。たとえば、因果性という物質がこの世界のどこかにあるのだろうか。もしそんなものはないとすれば、少なくとも実在するものは物質的なものだけであるとする唯物論的な自然主義の観点からは、因果性そのものについては何も説明できない。因果性をそれそのものとしてこの世界の内で指し示すことなど、できるのだろうか。むしろ、因果性というのは、証明することは不可能だけれど、自然現象を説明するためには前提するよりほかない公理として、人間の都合で要請されているものなのだろうか。

かえって、因果性は世界の側に実在する法則などではなく、世界を観察記述する人間の側で経験的に構成された規則性の観念に過ぎないという考え方も、じつのところ学問の歴史においてそれなりに支持されてきた因果性理解の一つではある[3]。別の言い方をすれば、あるものが別のあるものを産み出すというかたちでの因果的な創作観は、あくまで一つのものの見方に過ぎないということである。

 

2. アロポイエーシスとしての創作

 

 

あるものが別のあるものを産み出す。創作する主体が創作される客体を産出する。このとき、作者と作品は別々のものである。このように捉えられた創作を、システム論では、アロポイエーシスと呼ぶ。アロは他を意味し、ポイエーシスは創作を意味する、ギリシア語を組み合わせて造られた術語である[4]。他とはいったい何であるかということが、これまたそれ自体で大変な問いではあるけれど、ここではさしあたり次のように簡単に理解しておいてよい。すなわち、私とあの人は別人であるとか、このタブレットとこのペットボトルは別のものであるとか、あるいはこの記事を読むことと朝食の支度をすることは別のことであるとか、そういうふうにある観察記述の視点から別々の物事として区別して捉えられた個々のものの間の関係が、ここにいう他ということである。したがって、アロポイエーシスとはここでは、この意味で、あるものが他のあるものによって創作されるということである。

どうしてこのような概念をわざわざ持ち出したかと言えば、アロポイエーシスは機械としてのシステムの作動であるという、ここでの議論に決定的に重要なシステム論(とりわけ、ネオ・サイバネティクス、基礎情報学)の考え方を導入しておくためである。つまり、ある何かが別の何かを産出することとしての創作は、機械としてのシステムの作動であるというのが、システム論の一見解なのである。別の言い方をすれば、創作する主体としての作者と創作される客体としての作品からなる創作の捉え方は、あくまで機械論的世界観における創作のメカニズムなのである。

ところで、この機械論的世界観からすれば、作者すなわち創作の原因が人間なのか技術なのかということも、両者の間で原因性を分担している比率があるのかということも、問いとして意味をなさない。なぜなら、結局のところ、いずれも機械と見なされた人間と技術が、機械的法則に従って作動した結果として、作品を出力しているに過ぎないからである。

しかし、そもそも機械論的世界観からしたら、この世界の内に真の意味での創作なるものがありえるのだろうか。なにしろ、この世界の内に存在する万物は、すべてこの世界を支配する法則に従って作動しているだけなのである。因果律こそは、そのような機械的法則の中でも最も峻厳に要請されているものの一つ。世界は必ず因果律に従うに決まっているというわけである。機械は因果律に従っている。つまり、人間も技術も、そしてこの世界も、因果律に従っている。そういう機械論的世界観からすると、たとえある人間がある作品を創作したように見えたとしても、それはこの人間があくまで法則に従って作動したことの必然的な結果にほかならず、そうであればその創作の原因はこの人間ではなく法則というべきではないか。

原因はいくらでも遡行しうるしいくらでも拡散しうると先に述べた。だが、いま述べたアロポイエーシスと機械論的世界観を踏まえると、より根本的なことは、そのような世界観における創造性の因果律に従うならば、この世界の内に存在する特定の何者かを創作の原因ないし作者として特定することが原理的に不可能になるということである。つまり、機械論的世界観からすれば、ある意味で作者などいないということになるわけである。あるいは、もし作者がいるとすれば、この機械論的世界そのものの作者だけである。そして、アロポイエーシスであるからには作者は作品とは別にある。つまり、この世界の作者はこの世界の内にはいないということである。結局、機械論的世界観からしたら、この世界の内で何か作品が創作されたとしても、それを究極的に創作した原因は、この世界そのものの法則あるいはこの世界そのものの作者であるというべきではないか。

機械論的世界の内には作者がいないとなれば、そのような世界の内に生きる人間の自由と責任も重大な影響をこうむる。なぜなら、創造性がかりに因果律に支配されており完全に必然的であるとしたら、そこに人間の自由な創意工夫の入り込む余地などないからである。人間が自分では何か自由に創作したと思い込んでいたとしても、そのように創作したこともそのように思い込んだことすらもまた、すでに決定された因果連鎖の一部として振る舞っただけのこと。どうせそれは必然であったのだから。人間の自由に由来するものがありえないのであれば、そこには人間の責任もありえまい。

しかし、ではそのように人間の自由と責任を否定しているのは因果律の必然性なのかというと、そうとも言えない。なぜなら、創造性がかりに、いかなる意味においても因果律が一切なく、必然的であるということの正反対という意味で完全に偶然的であったとしても、それはそれでそこに人間の自由な創意工夫が入り込む余地はないからである。人間が自分では何か自由に創作したと思い込んでいたとしても、その作品はその創作に由来してはおらず、一つ一つの物事は何の因果関係もなしにただそれぞれ虚しく空転しているばかり。どうせそれは偶然であったのだから。またしても、人間の自由に由来するものがありえないのであれば、そこには人間の責任もありえまい。

こうした意味では、創造性の因果律という観点から見たとき、必然と偶然は対極にはない。それはすなわち、およそ創作というものがありうるとしたら、それは必然とも偶然ともいえないということなのだろうか。あるいは、このように必然と偶然を対立させるような視点からでは見えてこないような創造性の因果律があるということなのだろうか。

ところで、因果関係における原因の理解にもいろいろある。機械論的世界観が前提する因果律からは、いわゆる目的論的な因果性は基本的に除外されてきた。つまり、目的というものが原因としての力をもっているとは考えないのである。たとえば、人間の行動であったとしても、その原因はその意志ではなく、あくまで機械的法則に従って作動したまでのことと見なされる。ひとが何らかの目的をもってそれを達成すべく行為したというふうにはそれを説明しないわけである。

しかし、人間の現実はそうだろうか。たとえば、日常生活の世界では、むしろひとは目的因を前提としているのではないか。現代社会は基本的に人間が自分の意志に従って行為しているという想定のもとに成立しているではないか。たとえば、ある人間が善い行いをすれば、そのひとが褒められるのであって、この世界の法則が褒められたり、この世界の法則を設計した何者かが褒められたりはしない。あるいは、ある人間が悪い行いをすれば、そのひとが責められるのであって、この世界の法則が責められたり、この世界の法則を設計した何者かが責められたりはしない。それらはいずれも、行為の原因が、その行為をした当の人間の意志にあると見なしているからではないのだろうか。だからこそ、その社会では人間は自由であり責任があるとされているのではないだろうか。ようするに、現代社会は目的因を認めた上で成り立っているのではないか。

そして、それは創作についても同じである。何らかの作品が創作されたとき、ひとはこの世界の内にいる何者かを作者と見なすのであって、この世界の法則やこの世界の法則を設計した何者かを作者とは見なさない。著作権法では著作者は「著作物を創作する者をいう」[5]が、それはあくまでこの世界の内にいる人間や法人等を想定しているのであって、この世界の法則やそれを設計した何者かを想定しているわけではない。世の中には優れた作家に贈られる賞がいろいろあるが、機械論的世界観からすれば毎回どれもこの世界の法則かその設計者が受賞すべきところを、実際はそうはならずに普通に人間が受賞してきた。逆に、何か作品に問題があったときにも、それを法則のせいにしたり、その設計者のせいにしたりしたところで、ひとは納得しないだろう。

現代社会ではこの世界の法則やその設計者を作者とは見なしておらず、創作の自由も責任も人間にある。どうしてか。もっとも、個人の心の内においては創作の真の作者として自然や神に感謝することは現代社会にも少なくあるまい。だが、近代このかた科学技術とともに人間はそのようないわば神話的世界観からの卒業を自負してきた。しかるに、かえって科学技術とともにある現代社会においてなお、この世界の内に多数の作者がいて多数の創作が行われているという考えは、その科学技術を基礎づけているところの機械論的世界観に反するものではないか。どうしてこの世に人間や技術の創作というものがあるという考えが現代社会では普通に通用しているのか。もしかすると、そのような社会制度がじつはどこか矛盾を抱えており、機械論的に築き上げられてきた科学技術文明の中で、どこか歪にそこだけ機械論的な理屈が徹底されていないということなのか。あるいは、そのように考えるのは早計で、じつはどこかに、無限に錯綜する因果の繋がりからある特定の部分だけを原因として限定する何らかの正当な理由があるからなのか。つまり、機械論的視点に立ち、恣意的にでなく合理的に考えて、それでもなおどこかで無際限な因果の繋がりを断ち切ることができるからなのか[6]。それとも、何かまったく別の理由があるのだろうか。

 

3. 生物から見た創造性の因果律

 

ところで、そもそも創作はアロポイエーシスだけなのか。一方には創作する誰かがいて、他方には創作される何かがある。創作するものと創作されるものが別々にあって、一方が他方を産み出す。創作するものはそれ自身とは別のものを作り出す。創作とは、そういうアロポイエーシスに尽きるのか。アロポイエーシスとしての創作観からは、技術の創作と人間の創作の違いは見えてこない。この機械論的世界観では、技術のみならず人間もまた、意図や目的をともなうことなくただ機械的に過去のデータを処理するばかり。むろん、人間の創作は過去から受け継がれてきた歴史の中での行為には違いあるまい。それに、創作活動において人間は、ある意味で個人的な意識というか小さな自我のようなものへのこだわりから解放されて、いわば無我夢中で創作する。だから、いわゆる近代的人間観の自己中心主義的な個人の喧騒が沈黙するという意味では、たしかに人間の創作活動には、どこか人間を超絶したというか脱落したというか、そういう非人間じみたところがあるにはある。ただし、それは必ずしも人間が機械のように振る舞っているとか、あるいは人間が機械としての本性を発露させているとかいうことを、意味しているわけではあるまい。むしろ、これが意味しているのは、機械論的世界観だけでは捉えられない現実というものがあり、なかんずく人間の創作こそはそうした現実の極め付きの一例であるということ。そのような創作について、アロポイエーシスとしての創作論は何も語ることがない。

そもそも、アロポイエーシスとしての創作論は、いったいどこから語られた創作なのだろうか。機械論的世界観は、いったいどこから見られた世界なのだろうか。この世界全体を俯瞰する、世界の外に位置する視点にちがいない。なにしろ、それはこの世界そのものが因果律をはじめとする機械的法則に支配されているということを把握できる視座でなければならないのだから。しかし、この世界の内に生きる人間に、そのような視点、つまりこの世界の外の視点に立つなどということが、はたして可能なのだろうか。どうしたら、この世界の内にいながらにして、この世界を外から眺めているような視点でなければ知りえないはずのことを知ることができるのだろう。この世界そのものを支配する法則を、どうしたら人間に証明することができるのだろう。現代の人間が知っている科学的法則は、世界の内に生きる有限な人間が、その経験に基づいて帰納や仮説推量によって導き出した、暫定的な規則性のようなものに過ぎないはずではないか。現代の人間が法則だと思っているものは、真に法則と呼ぶに値するものなのだろうか。単なる経験的な規則性のようなものとしてではなく、真に法則としての因果律を、人間は知っているのだろうか。

機械論的世界観において因果律は、創作における人間と技術の関係性を把握し難いほどに錯綜させ、また人間の自由で責任ある独創性を否定するものとして立ち現れた。だが、もし事態を、あくまでこの世界の内に生きる生物としての人間の視点から見るならば、つまり生命論的世界観においてみるならば、因果律は、そして人間と技術の創作は、いったいどのように見えてくるだろう。

生物から見た因果律は、法則というよりは、あくまでその生物自身が自分なりの仕方で構成した経験世界内で暫定的に通用している規則性のようなものである。ある生物がそれによって生存することができた自分なりの規則性。その規則性がこの先もずっと通用し続けることを保証するものは何もないし、そもそもそれが規則性でも何でもなかったことが後に判明するかもしれない。ただ、その規則性に準拠した生き方が実際に通用する限りは通用し、それが通用しなくなればまた別の規則性を構成することによって生き延びてゆく。生物の知識行為を生物の視点から見るならば、そのような根本的に経験的で構成的な方法でどうにか生きてきたというだけのこと。そのような生物にとっての世界とは、それによって生きられたということによって事後的に構成される、あくまでその生物にとっての意味すなわち価値としての生命情報からなる世界。その生物だけの、いわゆる環世界である。[7]

ようするに、生物としての人間の視点から見れば、機械論的世界観にいう因果律は、法則というよりはむしろ、人間が構成した規則なのである。経験世界の現象が因果律に従っているように見えた、つまり経験を素材にしてそういう規則性を発見できたということ。その人間にとってそのような環世界が構成できたということである。そのような因果律は、実在世界の側にある法則ではなく(そもそもそのような法則や実在世界なるものがあるのかどうかはさておき)、人間の環世界の側にある規則である。

では、そのような規則性は、いかにして構成されたのか。この構成こそ、人間の創作といえば人間の創作である。この創作は、環世界そのものの創作であるからには、創作された環世界を見る視界の内にはあるともないとも言えないし、この環世界の内にある規則に従う必然性もない。別の言い方をすれば、創作の結果の作品を観察して、その中にいくら規則性を見いだしたところで、創作活動そのものを捉えたことにはならないということである。そもそも、創作は規則に基づいているのだろうか。創作の結果の中に発見された規則性は、法則とは言い難いばかりか、創作活動そのものという観点から見れば、規則ですらなく、むしろ事後的にそこに規則性を読み込もうとすれば規則的に見えなくもないものとでも言う方が精確であるようなものなのである。

創作活動そのものを観察記述する視点からは、まさに自由自在な、因果律とは一見相容れないかのようでいてしかし両立している、いわば自己創作的な因果性が見えてくる。創作活動が自己創作的であるということが意味しているのは、それが既存の所与の規則に基づいて展開されたものではなく、むしろ創作という活動の結果としてそれが基づいていたところの根拠ができあがるということである。そのような規則は、あくまで結果を事後的に外からの視点で眺めたときに推察されるものでしかない。ところが、この外の視点からは順序が逆になって見える。つまり、まずそういう規則が原因としてあって、それに基づいて創作された結果が作品である、というふうに観察記述されるわけである。しかし、創作活動そのものの視点からは、事態はそのようには観察されない。それは、あえて記述するならば、無根拠の根拠から作動的に自己創作された、とでも言うよりほかないようなものなのである。

創作活動の根底に規則性があるという想定は、あくまでアロポイエーシスとしての創作論が大前提として要請するものである。そのように機械的な因果性を含めた諸法則を大前提とした上で、しかも結果としての作品の中に事後的にその原因としての規則を構成するような、いわば顚倒した因果関係を導き出すような観察記述は、推論としてはいわゆるアブダクションあるいはレトロダクションに近い[8]。つまり、まずある作品が与えられて、それからそのような作品が産出されるにはそもそもどのような規則がなければならなかったかを、大前提の範囲内で遡るようにして仮説推量するのである。まず結果を見てから、大前提とされる法則を破ることなしに、そこに辿り着くことができるような規則を導き出す。では、アロポイエーシスとしての創作論が要請している大前提は何か。それは、作者はみな規則性に基づいて創作しているということである。そのような前提の上でなければ、たとえばある作家の特徴的な作風を抽出しようとする推論や、ある創作ジャンルを規定している構造を抽出しようとする推論は、そもそも意味をなさない。

さて、ではそこで導き出されることになる規則は、どのようなものか。たとえば、いまもしこのような仮説推量を機械に実行させるとしたら、規則は論理的に記述可能なアルゴリズムの形式に限定されるだろう。そのような形式でなければプログラムできないからである。もっとも、実際の生きた創作活動が、そのような論理的なアルゴリズムに還元できるかどうかは不明である。だが、もしそれでよしとするのであれば、そのような観点から見れば創作活動のように見えるような動作を機械にさせることは可能だろう。そのような観点とは、換言すれば、創作活動を内から見るのではなしに外から見る視点のことであり、ようするに機械論的世界観のことである。

実際、現行の人工知能にはアブダクションないしレトロダクションのような仮説推量をしていると見なしうる場合がある[9]。さらに、その性能をいわゆる創作的な場面で発揮していると見なすこともできる[10]。すなわち、まず既存の作品群というデータを手がかりにしてその創作活動を根拠づけていたと考えられる規則を仮説推量し、今度はそうして導き出された規則に基づいて演繹的に新作を展開するのである。このような創作的な課題の遂行にあたっては、仮説推量で導き出された規則が実際にその作品の創作活動が準拠していたところの規則と同じものではなかったとしても、それでも何か作品のようものは出力できる。もとより仮説推量は誤謬の可能性を抱えた推論である。ありもしない規則を誤って導き出してしまい、しかもそのような規則などまだなく当然それに従っていたわけではなかった過去の創作活動さえをも遡及的にその規則に従っていたことにしてしまうような、そういう誤謬のおそれを抱えた、あくまで仮説推量である。

とはいえ、創作を楽しむという文脈に限って言うのであれば、そのような誤謬をあえて面白がるというのもまた一つの趣向と言ってもよいかもしれない。間違って独特な規則を編み出してしまった方が、かえってそれを機械ならではの独創性として評価する向きもあるだろう。機械論の視界には、創造性は逸脱として現れるものである。創造性を線の始点のようなものとして考えるなら、それが出現するには現在進行中の流れの切断や分岐が要求される。だから、たとえばエラーやグリッチのような機械のいわゆる誤作動は、必ずしも逸脱と見なさなければならないわけではないけれど、機械的な創作の視点から見れば、機械の誤作動を技術の逸脱的な使用の効果として作品の素材にすることが手法の一つになる。そうであれば、たとえば人工知能の創作についてもまた、創作活動に論理的に推論可能な規則性が潜んでいると考えてしまうことそのものが推論機械たる人工知能という技術にとってはこれ以上ない誤作動であるということこそが、そうした創作観にとっては傑作の秘訣になるのかもしれない。そして、そのときまたしてもその根底に横たわっているのは、機械的な創作は機械の逸脱を作品の素材にするという、それ自体また一つの規則性、すなわち創作活動の顚倒した規則性である。しかし、所与の規則に従って何かを生産することを、それでもなおひとは創作と呼ぶのだろうか。

 

4. オートポイエーシスとしての創作

 

なるほど、たしかに創作を外から眺めて作品を対象として観察する視点からは、ひたすら規則に従う機械であっても名作を世に送り出すことはいくらでもあるだろうし、そこに芸術的であったり経済的であったりするさまざまの人間にとっての意味や価値が見いだされることもまたいくらでもあるだろう。ただ、創作の作動そのものという観点からすると、機械的な創作をその奥底で動かしているのは、むしろ人間にとっての意味や価値とは無関係に、人間の世俗的な利害関心とは無縁の、あくまで論理的な規則に従うことを理想とした、徹底的に形式的な記号の操作である。その意味で、それはいわば規則的な創作、あるいは他律系の創作である。

しかし、現実の他律系の創作は、あくまで人間が経験的に暫定的に構成した規則に従っているのであり、法則に従っているのかどうかはわからないのである。ほんとうは法則には従っていないかもしれないし、あるいはいわば非規則的な生命論的世界の法則に従っているのかもしれない。創作における機械の予期せぬ作動は、機械の逸脱というよりは、むしろあくまで規則的な機械といわば非規則的な世界との関係が表面化したものなのかもしれない。生きた世界の法則には常ならぬものがあるから。しかも、それは異常なのではなく、いわばただ無常なだけなのだとしたら。

根本的に、生物から見た創作には根拠となる規則があらかじめ与えられているのかどうか、わからない。というよりも、そのような根拠はないと言う方が、むしろ創作という活動を精確に描写した表現であるといっても過言ではない。自己創作的な作動は、所与の規則に従うのではなく、作動の結果として規則性のように見えるパターンをつくりだしているのであり、そこには通常の意味における根拠や規則や原因といったものはない。その意味で、それはいわば非規則的な創作、あるいは自律系の創作である。

自律系の創作、すなわち規則的とも不規則的とも言えず、規則的な創作あるいは他律系の創作という発想とは根本的に異なる、いわば非規則的な創作とは、いったいどのような創作活動なのか。そこでは何が起こっているのか。これをシステムの作動そのものの視点から見るならば、規則に基づいているのでもなければ不規則でもなく、ただ創作の結果、規則的に見える何らかのパターンが残され、そのパターンによってまたパターンが形成される。そのような自己創作過程が再帰的に作動している。

このようなパターン形成は、生物学的にはたとえば形態形成に通ずるものと言えるかもしれないが、ここでの主題で言えば、まさしくこれこそ生きた創作にほかなるまい。基礎情報学によるならば、情報とは根源的には生物がそれによってパターンをつくりだすパターンである[11]。ここでパターンをつくりだすパターンというのは、パターンのつくり方を指示するメタなパターンのことではなく、再帰的な自己創作のことである。パターンの形成過程そのものが再帰的な自己創作であるところに、生きた創作の自己因果性がある。

システムという観点から言えば、パターンがパターンをつくりだす産出過程の連鎖が再帰的に循環するとき、そこに一つの自己創作するシステムが存立していると見なすことができる。このような自己創作を、システム論ではオートポイエーシスと呼ぶ。情報とは本来、このようなオートポイエーシス・システムとしての生物が、それによって生きることのできた意味すなわち価値としての生命情報として自己形成されるのである。[12]

このオートポイエーシスとしての創作における作者と作品の因果性は、作られることなく作る主体としての作者と、作ることなく作られる客体としての作品という、それぞれが原子のように独立した原因と結果の関係性からなる因果性ではない。アロポイエーシスとしての創作で要請されていたそういう因果性とは根本的に異なる、生きた創作の因果性は、それによって生きられた作者が作品をつくりだす作品ができることで作者が生まれるという、循環する再帰的な因果性である。つまり、いわば原因でもあり結果でもある自己因果性なのである。

生命の目的的かつ法則的な創作、あるいは志向性の因果性とでも言おうか。この自己因果性には、単に必然とも偶然とも言えない、ある決定的に自由なおそれがある。その原因と結果は、いわば推論inferではなく敬遠deferする関係にある。人間が自分にもわかる仕方で解明してやろうと秘密を暴き立てるような野暮な近づき方は、もしかするとこの創造性の因果律には無作法かもしれない。尊厳に敬意を払い、敬して遠ざけながら通じ合う。あるいは、言ってみれば、諦められることで明らめられる、観念の因果律。

別の言い方をすれば、アロポイエーシスとして創作を捉える視点からの因果性では、作者は厳密には独断的にしか特定しようがないが、しかしオートポイエーシスとして創作を捉える視点からの因果性では、自己創作システムとして作者を特定することならできるということである。このシステムの作動にいわば副産物のようにともなう物質的な産物こそ、普通ひとが作品と呼ぶものであり、そのシステムはその作品の産出とともにその作者となる。生きた創作の自己因果性としての作者を自己創作過程として捉え直すと、そこには創作主体としての作者性ではなく創作過程としての作者性がある。

これが、オートポイエーシスとしての創作における作者性である。これはアロポイエーシス的な意味での創作主体としての作者性ではない。その意味では、たしかにそこに作者はいない。自己創作の瞬間、創作主体の自我は空しくなる。だが、そのことによって、作者としての人間性、人間としての作者性は、かえって活力に満ち溢れる。この創作は生命情報の根源的な形成だからである。それは、生きられた意味すなわち価値の自己形成である。生物としての生命活動にともなう生命情報の発生こそ、原初的な創作なのである。かくして、ここにようやくはっきりとこう述べることができる。生物がただ生きるということが、根本的にはそのままで創作活動なのである。

 

5. 生命と創作

 

 

オートポイエーシスとしての創作観は、ただ生きているということそのものに創作の自己因果性を見る。美と生命が深いところで繋がっているのである。生きているということは、ただそれだけで美しい。この命題は、あくまでオートポイエーシスとしての創作観で見たときに意味をなす。これをアロポイエーシスとしての創作観で理解しようとしてはならない。そのような観点からは、これはあまりに素朴であまりに無意味である。これは機械論的世界観ではなく生命論的世界観からの創作論なのである。[13]

生きとし生けるものみな作者である。しかし、そこでいう作者とは、前述のように、たしかにいわゆる個人的な自我のようなものを超絶しているというか脱落しているというか、そういう作者ではある。だが、それは独創的で特別な作者性という観念を放棄し、機械的法則に身を委ねることで、因果連鎖の一部をなす無個性で一般的な無数の機械の一つとして振る舞うことでもない。そのような意味で誰もが作者であるというのとは全然別のところで、生きとし生けるものみな作者なのである。

そのような作者は、いわば生物個体とその生態系からなる階層的な自律系としての作者である。一生物個体としての個人とは別の階層に、個別のいろいろな社会的制約をも超えて、あるおおらかな生命的システムの自律系が働いている。その自己創作活動を人間としてこの世界の内で体現するとその表現が美であるような、そういう作者の創作活動である。それはもちろんこの世界に生きるひとりの人間の創作活動ではあるのだけれど、それがそのままでこの生命的なシステムとしての自己創作であるから、その作品はたしかにいまここに一表現としてありながら、それでいてどこか超然として得体の知れぬ捉えどころのなさがある。あるいは何か別の位相に存立するシステムの作動を感じさせる。

極め付きの芸術にはいつもそういうところがある。そしてそのような芸術の美にはどこか非人間じみたところがある。だが、非人間的とは言っても、それは反人間的ということではなく、むしろかえって超人間的なのである。だが、超人間的とは言っても、それはトランスヒューマンのように機械的な技術によって生物としての人間の限界を超克しているということで超人的なのではなく、むしろかえって底無しに深く野性的なのである。そのような芸術的な美を鑑賞する感性は、生物としての人間の、生命的なシステムとしての階層性を深いところで自から感受し表現する情動のことであるとも言える。つまり、その意味で、美の鑑賞と生の観賞は同じことなのである。

ここでいう創作とは、基礎情報学的なシステムのモデルで捉えるならば、人間の心的システムが、より高次の生命的システムと階層性をなしながらなお自律的に作動している、その作動の自己観察記述である[14]。ここでは説明のために、創作活動をする人間(もちろん、いまの文脈においては、ただ生きていることがすでに創作活動であるという意味での、創作活動をする人間)の心的システムを下位システムとし、人間が産み出す表現を構成素とするある種の社会システムを上位システムとする、簡便化した階層的自律コミュニケーション・システムのモデルでこの創作活動を描写してみよう。

まず、人間の心的システムとは、思考が思考を産出する広義のオートポイエーシス・システムとしてここではモデル化される。このとき、心的システムはあくまで思考を自己創作しているが、しかしそのいわば副産物として、身振りや話し言葉や書き言葉などの表現を産み出すことはあるだろう。いわゆる普通の意味での芸術的な表現もそこに含まれる。このとき、こうした心的システムの作動の副産物としての表現を構成素にして、別の自己創作システムができあがることがある。つまり、表現の産出過程のみを観察してみると、ある表現が別の表現を産出する過程に、この産物がまた別の表現を産出する過程が続く、という産出過程が継続するなかで、産出する表現を産出された表現が産出するというかたちで産出過程が再帰的な円環をなして作動していることがある。このとき、こうした表現を構成素とする自己創作システムが、それら表現を産出する心的システムとは別の位相に存立していると言える。つまり、ここに階層的かつ自律的な二重のシステムが作動している。これは、上位システムと下位システムそれぞれの自己創作過程を、それぞれの作動の視点で観察記述したものである。

下位システムとしての心的システムの自己創作過程と、上位システムとしての何らかの生命的なシステムの自己創作過程が、このようにしていわば共鳴するかのごとく両立するかたちで結ばれたとき、作品は産まれる。このとき上位システムは、家族や友人たちからなるささやかな共同体かもしれないし、経済や政治のようなグローバルな社会システムかもしれないし、あるいはより広く生物たちの共生する生態系かもしれない。心的システムの自律的作動がそのような上位システムの自律的作動と相即したとき、あるいはいわば規則と法則が適合したとき、その産物として広義の作品というパターンが産み出される。それはその階層的自律コミュニケーション・システムにとっての生きられた意味と価値の表現であるとも言える。いわゆる対象物としての作品とは、このパターンが物質的なものとして結晶したものにほかならない。

その美しさは、物質的な作品としてありながら、しかも非物質的な情報としてある。それは認知主体が実在世界の対象物を表象するような仕方で認識することはできないけれども、一つの生命現象として感じることができるような、あるいはその自己創作の作動過程そのものになって観察記述することはできるような、そういう美しさである。その創作は、人間の心的システムの自律的な自己創作過程であるとともに、どこかそこにはより高次の生命的なシステムの潑剌たる律動が重ね合わさり豊かに力が漲る。あたかも、あるより普遍的な生命的システムの作動を継続させながら、かつ一つの個別的な心的システムの唯一で特異な創造性を存分に発揮させているかのような、その創作が実現したとき、人間の心的システムは下位システムでありながらにして、上位システムたるこの生命的なシステムの作動を、その作動そのものの視点から自己観察記述できてしまっている。

 

6. 創作における人間と技術の関係

 

このようなモデルで創作を捉えるなら、上位システムをどのようなシステムとするかは観察記述者次第ではあるが、わけても生態系を上位システムとする階層的自律性の表現は、究極的な創作の一つにちがいない。ここで生態系とは、生物たちが共生する一種の社会システムのようなものを思い浮かべてほしい。ところで、言葉の厳密な意味で、技術すなわち機械は共生しない。機械は生きていないからである。この考えは、オートポイエーシスとしての創作の理解にも決定的に重要な違いをもたらす。つまり、このモデルで言えば、生物を自律系とし機械を他律系として峻別するこのようなシステム論の観点からは、技術は階層的自律コミュニケーション・システムを構成する上位システムや下位システムとしては位置づけることができないということである。

もっとも、自律系が階層をなしているとき、上位システムの視点からは下位システムはあたかも上位システムの作動の継続に必要な構成素を出力する他律系のように見えはする。したがって、あくまで上位システムとしてのたとえば社会システムの視点から観察記述するだけであれば、技術も人間と同じように、その社会システム自身の構成素たるコミュニケーションを出力する下位システムの一つと見なすこともできなくはない。だが、それはあくまで上位システムの視点から見ればのことである。下位システムの視点から見たとき、それが自律系として作動していないのであれば、それは自律系が階層性をなして創作活動をしているとは言えないだろう。

しかるに、技術とはそもそもが人間に設計された他律系であり、このシステムの作動そのものの視点から自律系として観察記述することはできない。したがって、技術は下位システムとして位置づけることはできない。つまり、技術が創作に関与しているとしても、それは人間と同じように自己因果的な創造性を担う下位システムとして働いているわけではないということである。

では、いったいオートポイエーシスとしての創作において技術は何をしているのだろうか。人間の創作に技術が関係しているというとき、いったいその関係とはいかなるものなのか。創作において人間と技術はそれぞれどのように位置づけられるのかという、本稿の冒頭に掲げたこの問いに、オートポイエーシスとしての創作観からはどのように答えることができるだろうか。

まず、上位システムの視点からは、下位システムはあたかも上位システムの作動の継続に必要な構成素を出力するアロポイエーシスとしての創作をしている他律系に見えるのであった。これは、別の言い方をすれば、上位システムにとっては、自分の作動の継続とは関係ない素材や、それに反する素材を出力するような下位システムは、排除するよりほかないということである。それを、上位システムが意図的に排除していると見ることもできるかもしれないが、よりシステム論的に作動として見れば、構成素が構成素を産出するプロセスのネットワークに入らないものはそもそもシステムの構成素にならないという意味で、その素材を出力しないシステムとの間には階層関係が成立しえないという理由から、おのずと排除されることになるとも言える。すなわち、システムにとっての自己と非自己の境界は作動を通じて決定されるということである。

そうすると、このような階層関係が継続しているという事態を、次のように描写することもできるだろう。すなわち、上位システムは、下位システムがなるべく構成素となる素材を出力してくれるように、メディア(媒介)を利用して、下位システムがどのような素材を出力するかを間接的に整序している。つまり、どのような表現であれば上位システムの素材となりうるか、ある種の制約を規定することで、階層的なシステムの作動を安定化させていると見ることができる。もっとも、これも上位システムが意図的にそうしていると見ることもできるかもしれないが、システムの作動として見るならば、自己と非自己の境界を決定するなかでおのずとそうなるわけである。もちろん、下位システムはそれ自体は自律系であるから、指令によってその作動の仕方を操縦することはできず、あくまで間接的に統制することしかできない。ただ、そこにはやはりいま述べた仕方で、上位システムから下位システムへの非対称な制約の力が働いていると見ることができるわけである。そしてまた、これが、下位システムが階層的に作動するための条件、あるいは社会的な根拠をなしてもいるわけである。つまり、メディアは作動の制約でもあるが、それは作動を補助するものでもある。上位システムがどのように進化していくかに、下位システムもメディアを媒介にして働きかけることができるということでもある。このような関係性が上位システムと下位システムとメディアの間に成立している。

ここで技術の位置づけである。このモデルにおいて技術はどのように位置づけられるのか。それがまさにこのメディアなのである。下位システムがいかなる表現を産出するかを制約するとともに補助する、システム論的な意味でのメディアである。たとえば、ある人間がある技術を利用して創作をしているという場面を、単に人間と技術が協力して作品を産出していると見るのではなく、あくまで人間の創作活動(人間の心的システムとその上位システムとの階層的自律コミュニケーション・システムとしての作動)を、技術が媒介している(制約するとともに補助している)と見るわけである。

それは、人間と技術がともにつくる社会についての一つのものの見方である。すなわち、技術の力を借りながら、人間のオートポイエーシスとしての創造性を働かせるための、一つのものの見方である。この見方で、冒頭にあげた、人間と技術がともに創作している実例を見直し、その意義を考え直したら、どうなるだろう。

そして、もし上位システムが生態系であるとしたら、そのとき創作はどうなるだろう。何らかの特定の社会システムではない。この地上に生きることで38億年も脈々と命を繋いできた生物たちの共生システム[15]。人間の中の自然、自然の中の人間。その階層的かつ自律的な自己創作過程と技術との関係を観察して記述してみる。そこに一つの究極的な創作があると見るのである。そのとき、人間と技術は実際にどのような関係を築いてゆくことになるだろう。人間中心でも技術中心でもない生命の世界の創造性の因果律。もし人間の心にも一縷の原因性があるならば、あなたの意志が未来をつくる。

 

 


 

文中注釈・参考文献

 

[1] たとえば、Rotterdams Philharmonisch Orkest “From us, for you: Beethoven Synphyony No. 9” Mar 20, 2020 (https://youtu.be/3eXT60rbBVk)

[2] 因果性の哲学的な議論の詳細にはここでは立ち入らないが、参考文献として次をあげておく。ダグラス・クタッチ『現代哲学のキーコンセプト 因果性』相松慎也訳(岩波書店、2019)、スティーヴン・マンフォード+ラニ・リル・アンユム『哲学がわかる 因果性』塩野直之+谷川卓訳(岩波書店、2017)、一ノ瀬正樹『英米哲学入門:「である」と「べき」の交差する世界』(筑摩書房、2018)。

[3] デイヴィッド・ヒュームの因果論がよく知られている。註7も参照。

[4] ウンベルト・マトゥラーナ+フランシスコ・ヴァレラ『オートポイエーシス:生命システムとはなにか』河本英夫訳(国文社、1991)。なお、ここでの主張を先取りしておくと、システム論的な創作観はアロポイエーシスだけではなく、オートポイエーシスとしての創作観でこそ捉えることのできる側面が創作活動にはある(なお、オートは自を意味する。したがって、オートポイエーシスとしての創作を、あえてここでは自己創作と訳すこともできよう)。これについては本稿の後半で述べる。まずはアロポイエーシスとしての創作について見ていくことにしよう。

[5] 著作権法第一章第二条二。

[6] 機械論的な因果律そのものが、技術の設計論における多くの難問の底に横たわっている。ここでは踏み込まないが、無際限な因果関係をどのように合理的に限定するのかというこの問題は、たとえば人工知能研究におけるフレーム問題にも通じるところがある。フレーム問題が難題である理由の一端は、因果性とは何であるかということが、機械を設計する人間にとって不明であることにある。そして、フレーム問題に通うところがあるとすれば、それは人間の意思決定、とりわけその情動的な意思決定の問題にも通うところがあるかもしれない。この線でこれはさらに情動と感性の美学倫理学を基礎情報学的に探る道筋につながってゆく。フレーム問題については、ジョン・マッカーシー+パトリック・J・ヘイズ「人工知能の観点から見た哲学的諸問題」三浦謙訳、ジョン・マッカーシー+パトリック・J・ヘイズ+松原仁『人工知能になぜ哲学が必要か:フレーム問題の発端と展開』(哲学書房、1990)、ダニエル・デネット「コグニティヴ・ホイール:人工知能におけるフレーム問題」信原幸弘訳『現代思想』15(5):128–150。フレーム問題と情動については、信原幸弘『情動の哲学入門:価値・道徳・生きる意味』(勁草書房、2017)。

[7] 経験的な規則性としての因果性については、デイヴィッド・ヒュームおよびいわゆるヒューム主義者たちによる議論がある。また、規則性があくまで暫定的なものであり未来にも通用するかどうか保証できないことについては、たとえばソール・A・クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス:規則・私的言語・他人の心』黒崎宏訳(産業図書、1983)を参照。オートポイエーシスの観点からこの問題を取り扱っている研究として、河本英夫『オートポイエーシス:第三世代システム』(青土社、1995)がある。さらに、生物としての人間の視点から経験的に構成された世界の実行可能性については、エルンスト・フォン・グレーザーズフェルド『ラディカル構成主義』西垣通監修・橋本渉訳(NTT出版、2010)で考察されている。環世界については、ヤーコプ・フォン・ユクスキュル+ゲオルク・クリサート『生物から見た世界』日高敏隆+羽田節子訳(岩波書店、2005)を参照。生物にとっての意味すなわち価値としての生命情報という考え方は、西垣通『基礎情報学』(NTT出版、2004)と西垣通『続 基礎情報学』(NTT出版、2008)によるもの。

[8] 米盛裕二『アブダクション:仮説と発見の論理』(勁草書房、2007)。

[9] 西垣通『ビッグデータと人工知能:可能性と罠を見極める』(中央公論新社、2016)。

[10] 河島茂生+久保田裕『AI × クリエイティビティ』(高陵社書店、2019)。

[11] 西垣通『生命と機械をつなぐ知:基礎情報学入門』(高陵社書店、2012)

[12] この生命情報を、たとえば人間が観察して人間の言語で記述すれば、それはある社会で間主観的に共有され流通しうる社会情報に転化する。記述は自然言語で表現されることもあるが、身振りや図像や音楽のようにさまざまの仕方で表現されてもかまわない。このような表現こそ、いわゆる人間社会において普通にいう意味での創作であると見ることもできるだろう。社会情報では記号とそれが指示する意味内容が不可分に結び付いている。その結び付きは共時的にも通時的にも言語共同体ごとに相対的で流動的だが、たとえば高度に惰性的な社会においては記号とその意味内容の結び付きがある程度は一般的で固定的になり、記号だけを独立して伝達しても、意味内容まで共有されることをそれなりにあてにできるようになる。かくして、記号と意味が一体であった社会情報は、意味から分離した単なる形式的な記号という機械情報へと転化する。機械論的世界観における情報処理としての創作は、あくまで機械情報の処理である。そこでは生きられた意味すなわち価値は捨象されている。事実、機械的に処理される形式的記号を意味と結び付けることは、たとえば人工知能研究においても、未解決の難題とされている(記号接地問題)。だが、形式的記号と意味を結び付けるという発想からは、ややもするとあべこべな疑似問題が生じることにもなりかねない。基礎情報学的に順を追えば、まず一方に無意味な形式的記号があり他方に意味内容があり、それから両者が結び付くことで有意味な記号ができあがるのではなく、そもそも意味と結び付いていた記号(社会情報)が、意味のない形式的記号(機械情報)に転化したのである。アロポイエーシスとしての創作は、あくまでこうしてできあがった機械情報の操作である。これをいくら見ていても、社会情報の問題としての人間の創作のことは見えてこないだろう。そうなったとき、なるほど機械情報から社会情報へ(そしてさらに生命情報へ)といわば復元する行き方もあるかもしれないが、しかし生命情報から社会情報へ(そしてさらに機械情報へ)と転化する過程の理解も欠かすことはできない。西垣通『生命と機械をつなぐ知:基礎情報学入門』(高陵社書店、2012)参照。

[13] 同じくオートポイエーシスの観点からの創作論に、河島茂生+久保田裕『AI × クリエイティビティ』(高陵社書店、2019)がある。そこには、ここでの議論とやはり同じように、アロポイエーシスではなくオートポイエーシスとしての創作という観点から見ることではじめて意味をなすような、生物としての人間の根源的な創造性がさまざまのかたちで描写されている。

[14] このような階層的自律コミュニケーション・システムというシステムのモデルの詳細については、西垣通『基礎情報学』(NTT出版、2004)、西垣通『続 基礎情報学』(NTT出版、2008)を参照。

[15] ネオ・サイバネティクスにおいて、ここでいう生態系の考え方に近いものを考察した先駆者に、グレゴリー・ベイトソンがいる。グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳(新思索社、2000)。さらに、より生命論的世界観で生物たちの歴史と関係を考察してきた研究に、中村桂子の生命誌がある。中村桂子『ひらく:生命科学から生命誌へ 中村桂子コレクション第1巻』(藤原書店、2019)。

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原島 大輔

原島 大輔

著書に、『AI時代の「自律性」』(共著、勁草書房、2019年)、『基礎情報学のフロンティア』(共著、東京大学出版会、2018年)など。