新しい「魔法」の時代へ、ようこそ―Learning Crisisとポスト・コロナの情報社会―

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柴田 邦臣

柴田 邦臣

COVID-19が子どもに及ぼす「学びの危機」が、短期的な学習意欲の低下や学力格差拡大はもちろん、時代を画する長期的な「科学・学問の危機」たり得ることを提起。現在は「Learning Crisis研究会」会長、およびそこから生まれた「学びの危機プロジェクト」(まなキキ)代表として、「学ぶために特別な努力が必要な時代」の研究と受け皿づくりに奔走する。オンラインの「学びの危機シンポジウム」などで研究成果を共有する一方、「まなキキ・サイト」や「44まなキキ(英語ゲーム)」では、既成の概念にとらわれない、この時代ならではの「新しい学び」を学生主体の「学びのナビゲータ」と共に提案。公開哲学書読書会「まなキキ講読会」を毎週開催するなど、「教える側の学び」も視野に入れた社会実践を進める。専門は社会学・福祉情報研究・インクルーシブ学習論。著書に『〈情弱〉の社会学:ポスト・ビッグデータ時代の生の技法』(青土社)、『字幕とメディアの新展開:多様な人々を包摂する福祉社会と共生のリテラシー』(青弓社)、『思い出をつなぐネットワーク:日本社会情報学会・災害情報支援チームの挑戦』(昭和堂)ほか。津田塾大学学芸学部准教授・インクルーシブ教育支援室ディレクター。

YouTube(津田塾IESチャンネル)

1. ポスト・コロナの情報化とは、「魔法の時代」のことである

 

そして、世界は「魔法」に覆われるようになった。

21世紀になってますます深まる「新しい情報社会」は、おそらく、「魔法」の世界そのものなのだ。私たちはこれまで、大きな勘違いをしていた。最新のテクノロジーは「科学」から生まれるものであり、テクノロジーを全面的に活用していれば、すなわち科学的な存在だと思い込んでいた。

しかし、それは誤りだった。「魔法」は、テクノロジーと両立しうるのである。いや、情報テクノロジーこそ、「魔法」が発動する前提条件だったのだ。むしろ、テクノロジーに全面的に依存して生きるありようは、どちらかというと「科学的」ではなく、「魔法的」なライフスタイルになるのである。

別に、サイトで読む小説やマンガで転生するとたいてい魔法の世界に生まれ変わるとか、ネットゲームのほとんどは魔法のある世界線だという話をしたいわけではない(それでもいいのだが)。それこそ、この世界に転生してきた異世界人に、前世紀にはハンドルとアクセルで運転していた自動車が、今世紀になって「自宅に帰る」との音声認識で動くようになった様子をみせると、十分「科学の時代」から「魔法の時代」になったと思うだろう、という、「クラークの三法則」を焼き直した程度の話なのかもしれない。

振り返ってみると、確かに私たちの情報社会は、すでにずいぶん昔から「魔法」に包まれている。

YouTubeのミックスリストは、自分で意図したわけではないのに、微妙に好みに合わせつつ新曲を教えてくれる「魔法」だ。AIの天気予報は、メッシュ単位で不思議なほど信頼できる予測を出してくれ、もはや外出に欠かせない「魔法」だ。そもそも世界最強の大統領が、信じがたい言動を繰り返しておきながらも、奇跡的になんとなく、世界をそれなりに統治しているという、「魔法」のような信じがたい時代なのだ。

「魔法」は、実は情報化と、相性が良い。しかしその実像や真価が浮かび上がったのは、2020年の新型コロナウィルス感染症(COVID-19)による危機によってだといえる。

これまで私たちは、新しい情報化の時代で幅を利かせる「力」が、「科学」なのか「魔法」なのか、よくわかっていなかった。その力が「魔法」としての実像を露わにしたのは、私たちの世界がCOVID-19に対峙する中のことであった。もっとも多くの方は、対抗しているのは「医学」という科学だ、と思われるかもしれない。確かにウィルスそのものを相手にしているのは、近代科学の長兄たる医学、疫学なのだが、しかしそれは病院・実験室や研究室の話に限られる。

本当にこの感染症に社会的に対陣している最前線は、私たちの生活そのものだ。そしてそこでおこなわれている対策のほとんどは、科学というには微妙なものばかりで、むしろこれなら魔法のほうに近い、といいうる代物になっているのではないか。

「コロナ禍」という表現は、まさに言い得て妙といったところだろう。

実際に私たちには、ことCOVID-19については、ほとんど科学の恩恵を受けている実感がない。これほどのパンデミックを引き起こしてまもなく1年、毎日のように「少しずつわかってきた」と報道されながら、その感染を制御できず、特効薬も発見できていない。

一方で「新しい生活様式」のもとでおこなわれる手洗いやソーシャル・ディスタンスは、マスクや接触確認アプリは、本当に敵に打ち勝つための科学的な武器となっているのだろうか。小さな子どもがスーパーに入店する前に慣れた手つきでアルコールを手に吹きつけ乾かしている様は、感染症対策というより、「神社に入るさいの御手水」か「教会に入るさいの聖水」と同質のものに、見えてはこないだろうか。

夜の街に行かずSTAY HOMEを続ける禁欲さ、マスクをつけ誰とも話さず下を向き続ける節制さ。接触確認アプリからの通知がないことを支えに生きる敬虔さ。もはや、エビデンスに基づいた科学的な解決法というよりも、仏教の戒律やユダヤ教の律法に近くなりつつある。すでに半年以上も続く「新しい生活様式」は、人類が英知をもって感染症と闘う作戦から変化し、むしろ私たちが倫理的にかつ定型的に守る「祈りの日々」の儀礼と化しているのである。

前時代的に見えるほど外見は多彩で機能は素朴な布マスクの下で、「3密」「2m間隔」「東京アラート」「虹色ステッカー」などとキャッチフレーズのように繰り返すありさまは、対策というよりは、魔法の呪文詠唱のほうに近い。

2020年現在、私たちは、日々、魔法による奇跡を祈りながら、生きている。

 

COVID-19になりませんように。

身内や職場、通勤路から感染者が出ませんように。

今週10人目のUber Eats配達員ですが、この人も、さらに調理したバイトの人も不顕性感染者でありませんように。

今日もコンビニには行きますが、換気が微妙な満員電車で出社しますが、隙間だらけのアクリル板が立てられたファミレスで食べて帰りますが、それでも感染することがありませんように。

交遊も戻り、仕事も回復し、最後は経済も無事でありますように。

 

これをPrayer Life…魔法を、奇跡を、救世を祈る生といわずに、なんと呼ぶのだろうか。

21世紀を4分の1も過ぎようという、人新世とまで呼ばれた時代で、グローバルなネットワークによって情報社会が完成期を迎えようとしている世界で、私たちがこれほど熱心に「祈り」ながら生きることになると、いったい誰が想像しただろうか。

だから、これから到来する時代は「科学の世紀」ではない。おそらく、救済の祈りに彩られた「魔法の時代」なのである。

 

2. 「魔法」が発動するための3条件

 

「ポスト・コロナの情報社会は、魔法の時代である」という際に気をつけなければならないのは、それがイコールで結ばれているという点だ。つまり、情報社会と魔法の時代は矛盾しない、ということではない。私たちが論じなければならないのは、「情報化が進めば進むほど、社会は魔法の時代になっていく」こと、むしろ「新しい魔法」の時代の基盤を情報技術が用意するのだ、ということなのである。

科学の申し子のはずの情報テクノロジーが、なぜ魔法の必須要素となるのか。それは、「魔法が発動するための3条件」を整理していくなかで、理解することができる。

そもそも魔法は、なぜ発動するのか。

古今東西、多くの「魔法」なるものが存在していて、例外が少なくないものの、条件の筆頭としてまず挙げられるのは、「呪文の詠唱」であろう。魔法が発動するためには、spellを唱えたりscriptを空書きしたりするのがお約束である。

一方、情報社会で食いつなぐデータ屋(私もそのひとりだが)にscriptやcommandと似かようものを連想させると、R、SPSS、KH coderなどの統計環境や処理ソフトなどをイメージするむきも多いのではないか。確かに多量のデータを扱う統計の世界において、「t検定」「因子分析」「共起ネットワーク」といった検定、関数や分析方法は…その統計学としての原理をある程度承知していたとしても…一種の魔法に錯覚できるような爽快感(や結果が出ない焦燥感)が、あるように思う。

そこで有意差が出たりきれいなネットワーク図が出たりすると、「効いた!」とガッツポーズをしてしまったりする。そもそもその結果は、私たちが本当に求めている因果の鎖ではなく、単なる関係性の示唆にすぎないにもかかわらずだ。

ひとりの人間では扱いきれない多量なデータをテクノロジーの力を借りて分析し、情報端末にむかってコマンドをつぶやくようなデータサイエンスは、本来はともかく表面的には、そして現実的には、私たちを一種の「魔法使い」のような気分にさせる。データサイエンスは、私たちに、社会が魔法によって語られても良いという感覚を、高揚感とともにもたらしてくれるのかもしれない。

魔法発動の第2条件は、それが「信じられていること」である。

魔法は、それをかける方も、かけられる方も、その存在を信じていなければ、発動することはない。「魔法の共感空間」においてのみ、それは発動するのだ。「魔法の空間」では、発動者も対象者もともに、魔法の敬虔な信仰者だからこそ効くのであり、それに共感しなかったり疑問を挟んだりするものにはまったく効果がない。

その意味で、現代国際社会の一番の魔法使いは、ドナルド・トランプや習近平だといえるのかもしれない。

トランプの語るオルト・ファクト[1]は迷信の類で、信仰者にのみ作用し、共感しないものにはなんの影響力もない。「中国の夢」はその国境内では強く共感されるが、国外ではまったく理解されない。しかし、それで十分、魔法は効いている。効いているどころか、世界を変えてしまう力さえもちえるのだ。

そのような「限られた共感空間」を生み出すために、信じあうフォロワのみで構成され共感できないものはブロックされて接点さえなくなるSNSは、最高のテクノロジーだということができる。

そして、魔法が発動するための最後の条件は、きわめて逆説的なのだが、「お互いに魔法を信じあう共感空間」にいながら、「それぞれは信じあってはいない」という不信の構造下であることにある。

魔法を唱える人は、魔法をかけられる対象に、何らかの特別な影響力を行使しようとし、実際に作用を及ぼそうと狙う。対象が信じられる人なのであれば、普通に直接、語りかければ済む。魔法などという特別な影響力を発動させる理由は、相手が信じられないからである。つまり、魔法を信じている人々は、共感空間には生きているが、それぞれを信じあってはいない。

「不信関係の構造」下においてのみ、魔法は必要性と有効性をもつ。

そして、「不信関係の構造」を形成する現在の情報社会において、AIが特別な価値をもち位置を占めつつあるのも、当然かもしれない。分析能力としても判断能力としても、つまるところ「人を信用できない」からAIが必要なのである。判事を信じられないからAI保釈システムが必要なのだし、周りの人が信じられないからSocial Credit Systemが必要なのだ。

AIの活用は、人は信じられないが魔法を信じている私たちが、信じられない人間という存在に力を及ぼす魔法の一種として、その地位を築きつつある。

 

3. 「新しい魔法の時代」の序幕としてのLearning Crisis

 

 

情報化が深化する社会においてはこれまでよりも、「祈り」は「信仰」とより共鳴し、「共感」は「不安」とますます同調し、「不信」は「詠唱」と常に雷同するようになる。

それは、COVID-19からの救世を願い、接触確認アプリを十字架のごとく肌身離さず、御手水か儀礼のようにアルコールで手を清め続ける、私たちの「新しい生活様式」そのものだ。だから、来たるポスト・コロナの情報社会に必要で、かつ、力を持つのは、「科学」ではなくて「魔法」の方なのである。

そう考えると、今回の「コロナ危機」COVID-19 Crisisにおいて、まず最初に中断され、結局最後までとどめ置かれ、そして、一番甚大な被害を受けたのが、子どもたち、特に障害のある子どもたちの教育・学びの現場であった事実は、きわめて象徴的な意味をもっているといえるだろう。

特に日本社会において、COVID-19が拡大の兆しを見せた時に、もっとも軽視されたがごとく真っ先に閉じられたのは、子どもたちの「学び舎」であった。日本全体に「緊急事態宣言」が出されるひと月も前から、小学校から大学までの大半の学校は長期休校に突入していたし、緊急事態宣言が解除されてからも、分散登校や短縮授業が続いた。

「学び舎」の正常化が一番後回しになっている悲劇は、通年でのオンライン授業が続き、自分が入学したキャンパスにほとんど行くことができない大学一年生という、前代未聞の存在が体現してしまっていることだといえる。

私たちは2020年4月に、この状況をLearning Crisis(学びの危機)と呼称することを提案した。

そして、その問題構造を把握し、その課題を克服するすべを探索してきた。本稿はその全体を論じるものではないので、詳細は「まなキキ」サイトに譲りたい。ここで重要なのは、COVID-19が蔓延する祈りと共感の「ポスト・コロナの情報社会」において、一番最初に、一番最後まで、そして一番深刻に被害を受けたのが、なぜ「学び」だったのか、という点である。私たちは、Learning Crisisに正対することで、「新しい魔法の時代」において、私たちから何が失われようとしているのかを、もっと深刻に自省しなければならない。

 

4. 「魔法の時代」は「科学の世界」とは相容れない

 

学びの結実である「科学」は情報社会を生みうるし、祈りの満願である「魔法」は情報社会を求めうるが、「科学」と「魔法」は絶対に相容れない。科学が「呪文」の詠唱を認めない理由は、原因と結果を矛盾なく論理的に結びつけることが条件になっているからである。

「わたしたちが望みさえすれば、そのことをいつでも知ることができる(略)その背後に原則として、何らかの神秘的で予測できない力が働いていないこと、すべてのものを原則として予測によって支配することができる(略)」(Weber, 1919=中山訳, 2009:191)。奇跡を願う祈りの儀礼や呪文を一片でも許せば、この論理的一貫性は、あっという間に形骸化する。

一方で、「依って立つ位置や党派によってファクトが変わる」、この情報社会のなかでは、「科学」が何よりも重要視してきたエビデンス=根拠は、ますます空虚化する。COVID-19に関する情報が、WHO、行政、マスコミそして自称他称を問わず多くの医師・専門家・研究者からこれほど発せられているのに、私たちは、そのどれをも確信することができなくなりつつある現状が、その傾向をよく表しているといえるだろう。

情報は「考える理由」から「感じるネタ(素材)」へと変質した。すでに私たちにとって、情報はその真偽を論じるものではなく、その正否を信じるものとなっている。オルト・ファクト化する情報社会において価値があるのは、「福音を感じ信じる」力であり、「根拠を追求し評しあう」力ではないのだ。

だから、魔法に包まれた情報社会において、もっとも軽んじられ後回しにされるのが「学び」の場であったのも、まったくおかしくはない。なにしろ、私たちが学んだ帰結は、学問・科学の土壌にこそなれ、魔法にはまったく役立たないばかりか、その奇跡を喪失させかねないのだ。ポスト・コロナの情報社会において力を持つのは、おそらく理屈・批判に満ちた「科学」ではなく、共感・情動から発動する「魔法」なのである。

それで世界が救われるのであれば文句はない。「COVID-19が終息するなら、祈りでいい」「批判めいた事実よりも、人々が共感しあう方が大事だ」という意見はありえる。

なにしろ「魔法の時代」は、たかだか5世紀ほど前まで、1000年間も続いていた実績があるのだ。ただしもちろん、その過去の「魔法」全盛期…いわゆる“中世”といわれるころ…の世界が、どれほど理不尽な苦しみに満ちた祈り、信仰、そして不信の時代であったかも、忘れない方がいい。中世は暗黒ではなかったという研究に頷ける点は多くても、それらは「魔法の世界」の儀礼や狂信や疑心暗鬼を、肯定したものでは決してなかった(阿部, 1997など)。

「魔法」というと、「夢」「奇跡」などのイメージを思い浮かべてしまうかもしれない。

しかし、忘れてはならない。これまでの人類の歴史で、「魔法」は魔女狩りを生み出したことはあっても、「夢」を叶えたことなど、一度もなかった。「夢を叶える」ように見せるだけのイリュージョンこそが、「魔法」の実像だ。「新しい魔法の時代」を現出する情報社会は、おそらくSociety 5.0、Smart City、Hyper Humanなどといったマジックワードからイメージするポストモダンなイメージとは、隔絶したものになるだろう。

むしろ、それらマジックワードが呪文以上の意味をもたないような、「新しい中世」とでも呼ぶべき時代に、私たちは生きることになるのだ。

 

5. 新しい「魔法」ではなく、新しい「学問・科学」を

 

 

新しい「魔法」の時代へ、ようこそ。

単なる情報社会の変容なら、まだなんとかなったかもしれない(柴田, 2019など参照)。しかし、COVID-19 Crisisは決定的だった。この恐怖のもとで、私たちは「学び、考える」ことをやめ、「信じ、祈る」道を選んだ。Learning Crisisが起こったのも当然だし、新しい「魔法」時代の序幕として、歴史に記憶されていくことになる。

しかし、まだ少しでも間に合うなら、もう一度だけ、思い出して欲しい。

「魔法」は実はこれまで、一度たりとて世界を救ったことはなかったし、夢を叶えたこともなかった。私たち人類の夢は、常に「学問・科学」の側が実現してきたのだ。学問が固執する古びた論理一貫性は、祈らなくても最後は理解できるという勇気を示している。科学が墨守する根拠主義は、共感できなくとも合意できる地平を探す努力と同じである。

そして学問・科学が、魔法と異なって、自らへの反論・反証に開かれている理由は、心から信じあうことができない他者とも、協働できる可能性を見据えているからなのだ。

本来の科学とは、学問とは、祈りがなくても理解し、共感がなくても合意でき、心から信じあうことなどできなくても協働するための、知の〈技法〉のことである。この情報化が進む社会においては、立場が主流と異なるマイノリティや、多様ゆえ固有の問題を抱えている弱者は、誤解されたり混同されたりして、大きな共感の網から漏れたり同調させられたり排除されたりする可能性がある(柴田, 2019:199)。

私たちがこのLearning Crisisに対して、障害のある子どもたちの学びを支えるWebサイト+各種オンライン支援活動である「まなキキ」をはじめ、今でも続けている理由は、障害のある子どもたちの未来は、安易な共感にも祈りの魔法にもなく、学び考える難路の到達点にある学問・科学にしかない、と考えているからだ。

そもそも、障害やそれぞれの事情によって、学びにくさを抱えている子どもたちは少なくない。

彼ら彼女らは、本人の特別の勇気と周りの格別の努力によって、これまでもなんとか学び続けてきたのだ。しかし、COVID-19 Crisis以降、真っ先に中断させ本気で回復させない「学び」軽視のありさまと、一方で祈りと信仰に満たされつつある社会の姿をみて、その勇気と努力を失いつつある子どもたちは、水面下で増えてきている。

もとより、障害があっても、どんなに多様で違っていても、人は人として平等であるという人権思想は、祈りと信仰で縛り付けられた中世時代から離陸する過程での、思想的勇気と科学的努力から編み出されたものだったはずだ。

COVID-19 Crisisの情報社会において、これからもPCR検査は続き、ワクチン開発・接種は進み、接触確認アプリの重要性がさらに増して、専門家による科学的言説も幾重にも発せられるだろう。一見するとこれからますます「科学の世紀」が到来するかの様に見えるかもしれない。

しかし、情報社会の未来において、それらは実質的には「魔法」として扱われるようになる。その論理はどんどん形骸化し、その根拠はますます空虚化して、不信が不可視に社会を覆う頃には、学問と科学は換骨奪胎され、何よりも祈りが重視される未来が到来しうる。

Learning Crisisとは、学校が休校になったり子どもたちの学習意欲が低下したりする危機だけを意味するわけではない。多くの障害のある子どもたちの〈力〉であり、私たちが理性的に振る舞い協働する〈技〉であり、人間が平等に尊重され生きることを証明し続ける〈基盤〉でもあった「学問」「科学」そのものが、喪失されることが、Crisisの本質なのだ。未来の牽引者たる子どもたちの「学び」が危機になるということは、そういう意味なのである。

現実は限りなく深刻で、この流れに棹差すことは難しくみえるかもしれない。

しかしもしも、そのような未来は甘受できないと思ってくださるのであれば、私たちが次にやることは、実は明白で、しかもさほど難しくはない。障害のある子が、すべての子どもたちが、そして私たちが、現在がLearning Crisisであることを理解し、「学ぶ」ことを諦めず回復すればいいのである。

「本質的な学び」のなかでは、「魔法」は生きることができない。祈ることなく論理を求め続け、安易に共感せず根拠を追求し、他者からの反論に正対し反証を受け入れて学び続ければいいのである。それを懐古主義のように見せる幻術こそが、「魔法」なのだ。

だから、『新しい「魔法」の時代へ、ようこそ』。

今、「魔法」の時代がはじまりその渦中にいると自省できれば、私たちは、学びの危機へのカウンターアクションをはじめることができる。

「魔法」から目覚めるには、自分が「魔法」にかかっていると自覚することが一番のはずだ。

 


 

参考文献

[1]”alternative facts”の略。都合のいい情報だけを信じるような代替的な事実のあり方のこと。

阿部謹也, 1997, 『「教養」とは何か』講談社現代新書.

柴田邦臣, 2019, 『〈情弱〉の社会学:ポスト・ビッグデータ時代の生の技法』青土社.

Weber, M., 1919, Wissenschaft als Beruf (=中山元訳, 2009, 『職業としての学問』日経BP社).

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