<連載第1回>
「証拠の医学」と「ものがたりの医学」
私たちが体調を崩したり病気になったりしたときにお世話になる医療。日本では大別して二系統の医学に基づく医療が保険でカバーされ、「公的な」医療となっています。その二系統のうちマイナーなほうが漢方医学です。中国から渡来し、日本で独特の発展を遂げた伝統的かつローカルな医学体系で、東洋医学の一種、あるいはホリスティック(全人的)キュア/ケアの一種、と位置付けられています。私は薬科大学に籍を置き、日本と台湾を行き来しながら、この漢方医学(台湾では中医学ですが)に関する研究と教育を行なっています。
公的医療のうち、より一般的なものが、近現代科学に基づくいわゆる西洋医学です。西洋医学と東洋医学、何かと比較されるこの二つですが、それぞれを一言でいうと前者は「証拠の医学」、漢方すなわち東洋医学に類する“それ以外のもの”は「ものがたりの医学」である、と私は考えています(実際、Evidence Based Medicine、Narrative Based Medicineという言葉もあるのですが、こちらは明確に定義された術語です。「証拠の医学」「ものがたりの医学」にはもう少し幅広い、そしてやわらかい意味を含ませたいと思います)。
西洋医学はヒトの不調の原因を突き詰め、切り開き、目で確認しながら見出した病因をなるべくピンポイントで取り除くことを良しとするものです。証拠を探り出し、なぜこの治療を行うかという因果関係を明確にすることと並行して治療を進めます――いや、実際は因果関係を得心のいくまで説明されたこともなければ尋ねたこともない、でもそういうものだと信じて私たちは医者の薬を飲んでいるのです。数学の問題を解く際に、すでに証明された公理公式についてはいちいち自分で導かずにそのまま適用するように。非常に明確です。
ただ、それだけでは私たちの体は快適にはなりませんでした。
「ものがたり」の誕生
「証拠の医学」において原因を追究するために行なうのはパーツの分割です。人間を精神と肉体とに分割し、肉体から皮膚をはがし、筋肉に名前をつけ、血管を特定し…細胞、細胞内小器官、細胞膜の電位変化。肉眼で見えないものは拡大鏡で、顕微鏡で、電子顕微鏡で。より繊細な「目」が研究の最前線に投入されていきました。
でも、精神と肉体を互いに別個のものとして切り離した時点で、もう例えば“ストレス性の胃炎”の根本的な治療は叶わなくなってしまうのです。
そうして「ものがたりの医学」が必要とされるようになりました。人間を分割できない全体のものとして捉え、不調は全体のバランスの崩れがある部位に現れたものと解釈し、治癒のために必要なキュア/ケアを探る…。「証拠の医学」と「ものがたりの医学」は互いに補完しあって私たちの体を快適な状態にする――はずでした。
つまり、今のところなかなか上手くいっていません。
「ものがたり」は語り手によって解釈が変わります。聞き手次第でも変わります。勢いがつけば尾ひれがついて泳ぎ出し、場合によっては作り話、すなわち虚偽として排斥されます。それが「ものがたり」の本質ではあるのですが、医学・医療にその性質が付与されてしまうといささか困ったことになります。その一方で、治療の手段が「証拠の医学」だけでは真に快適には生きてゆけない。これもやはり困った話です。
「ものがたり」を読み解く
となると、「ものがたり」を適切な範囲で読み解く力というのが必要になってきます。「ものがたり」である以上、果敢な飛躍を試みてももちろん構わない。でも風呂敷を広げるならそれを畳む力量も要ります。さらに言えば、題材が医学・医療ですから破綻すれば現実に健康被害が生じる。そうなることは避けたい。そして「ものがたり」には聞き手が必要…ということは、語り手すなわち医療提供者だけではなく、聞き手、つまり“誰も”がこの「ものがたり」の解釈力を持っている必要があるのではないでしょうか。
というわけで、これからしばらく「ものがたりの医学の読み解き方」について書いていこうと思います。もちろん解釈はひととおりとは限りません。ひょっとしたら反論なども頂戴するかもしれません。そうなったら面白いし嬉しいです。自分自身に一番近いところにある、一番熟知しているはずの資料――「私の心身」と「それを快適に保つ方法」。これについて、一緒に考えていけたら、と思っていますので。そしてこのシリーズは、ダイレクトな実益をかなり速やかにもたらせるはずです。体のものがたりを適切に読み解けたなら、日々の生活を楽な体で快適に送れます。これは一医療者の立場から、自信をもって言い切れる事実ですので。