<連載第3回>

無数の”ものがたり”

私は本稿を“いわゆる伝統医学はすなわち「ものがたりの医学」である”というスタンスから、それを「証拠の医学」たる現代西洋医学と対比させる形で書いています。

ところで、世の中にものがたりはたったひとつでしょうか? ――そんなはずはありません。

ひとことで“ものがたり”といっても、神話や伝説、民話の類から作者のはっきりしている小説に至るまで、様々な来歴、書きぶりのものがたりがあるように、“ものがたりの医学”も無数に存在します。

 

巨大で堅牢な”ものがたり”

私が専門とする漢方の基本は中国の数千年の歴史の中で培われたものですし、インドのアーユルヴェーダはヴェーダ(聖典)の名が示す通り、ほとんど神話の中にそのルーツを持ちます。

長い歴史の中で、そしてその歴史を生成してきた文化の中で育まれ――別の言い方で言えば磨かれ淘汰され生き残ってきた医学というわけです。そしてこれらは医学体系となりました。

つまり、「○○は××に効く」といった断片的な知識の集積ではなく、それらが“集大成”されたのです。

人体とは如何様なシステムであるか、病気とは如何様にそのシステムが破綻したものであるか、薬物のリスト、病気の治療法、なぜ治るのかという説明がすべて記述され、一貫した理論の中で病と治療に関する知識が破綻なく完結するようになった――現代医学の言葉で言いかえれば、生理学、病理学、治療学、薬物学、薬理学(治療には薬物療法以外のアプローチもあることを考えればもっと広く、回復メカニズムに関する系統的知識と言うべきかもしれません)が全部そろうようになったのです。

ものがたりとして例えるなら、世界の成り立ちから語り起こした神話体系レベルです。そのまま民族文化とも言えるものです。

 

また、これらは口伝ではなく記述されました。

例えば漢方の学習者・実践者に“漢方の三大古典とは何か”と問えば必ず人体のシステムについて記述した『黄帝内経(こうていだいけい)』、生薬事典ともいうべき『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』、そして病気の解説とその治療法を記した『傷寒論・金匱要略(しょうかんろん・きんきようりゃく)』という名前をを挙げるでしょう。

記述される、書物として刊行されるということは、治療家を志す者がすべて共通して学べるテキストが存在し、その文化圏に属する治療家は共通の理論、共通の認識に基づいて治療を行ない、互いの知識を交換することでより医学・医術を洗練させて行けるということにつながります。

だからこそ数千年の歴史の中で断絶することなく進化し今日まで現役の医学として存在し得たのです。

これは“巨大で堅牢なものがたり”です。

 

「イイツタエ」の力

そこまで大きくないものがたりもあります。
「○○は××に効く」という治療知識だけが集積したもの。人体のシステムについて独自の系統だった説明は持ちません。

なぜ効くのかという問いに対しても系統だった解説で答えることはありません。そして多くが口伝や口伝をそのまま収集し記述したものという形で伝えられます。

いわゆる民間薬、家伝薬に関する知識などがこれにあたります。特定の地域で歴史的に○○の特効薬として使われてきた、万能薬的に使われてきた…こういったものは特定の治療理論を持ちません。ものがたりの種類で言えば民話や伝承、イワレ、イイツタエといったものにあたります。

これらはその文化の中で確かに脈々と使われてきたわけですから一定の効果は期待できます。むしろ西洋医学がその力を発展させるべく進める研究において“新薬の種(シーズ)”として最も研究対象となりやすいのはこれらなのです。

「××に効く」以外の背景を持たない未知の物質について現代知識でもって探求することで、新たな(西洋医学的)治療法が見つかるかもしれない。

ですから、これらは体系の中にはないけれどもポテンシャルの高いものがたりなのです。――どこかの地方に伝わるイイツタエを真面目に解釈して調査を行なったら埋蔵金にぶちあたった、みたいなことが期待できるというわけです。

 

「イイツタエ」は「神話」ではない

ただ、これらの“断片的なものがたりの医学”と“世界創世神話級のものがたりの医学”をいっしょくたにしてはいけません。

「歴史的に使われてきた」のひとことがどちらにもついて回るため(そして天然物をあまり加工せずに医薬品として使用するという点でも共通しているため)同等のものとして見られやすいのですが、“断片的なものがたりの医学”についてはバックグラウンドとなる理論体系もなく、多くの人が知識を共有して検証し洗練させていくこともなく、ただ、そのものが長く使われてきたという事実だけがあるものだ、ということは忘れてはなりません。

埋蔵金にぶつかるかもしれない、けれど調査費用だけ空費して何ごともおこらないかもしれない、下手をすると事故が起きるかもしれない、そういうものであるということもアタマの片隅に置いておく必要があります。

“夢の特効薬”の“夢”は“詳しくはわからない”“マボロシ”の表れかもしれないのです。

 

検証のまなざしで読むべき”ものがたり”

そして“作家のはっきりしている小説”的なものもあります。

提唱者がはっきりしている、流行しはじめた年代はだいたい特定できるもの。伝統医学や哲学のアレンジであったり、西洋医学のバックグラウンドを援用しながら伝統医学を語りなおしたり、といったもの。

近代以降に意識的にとりまとめられているので、全世界をまんべんなく網羅してはいなくともひととおりの理論と世界観を持っているのも、これらの多くに共通する特徴といえるでしょう。数が多すぎるので具体名は挙げませんが、これらはみな“検証中のものがたり”であるといえます。

 

ひとりの提唱者が、あるいはある一時期のブームが説明しきるには人体・病気・治療法はあまりに膨大で複雑です。

そこに何か有効な手段が含まれているかどうか、あるいは運用され続けるうちに洗練され(もしくは提唱者が本当に天才で最初から真実を言い当てていて)有効な手段として深められていくのか、特定の条件下では有効である、という結論に落ち着くのか、それともやはり一過性のものとして消え去るのか――。

真実だったのか作り話だったのか、ひょっとしたら妄想だったのか、というのはまだわからない、まさにそれが検証されてゆく現場に立ち会っているのだという認識で向き合うべきなのがこれらの“ごく近いところで語られたものがたり”です。

使うのであれば一片の観察・批判精神を自分の中に注意深く保ちながら付き合うべきでしょう。“それなりの”体系を持っていても、そこに(多くの場合において)援用されている既存の医学体系は、本当にその“ものがたり”を信頼する根拠としてとらえるべきものなのか。

 

非常に難しい問題ではありますが、“ものがたりの医学”を使うにあたっては、その性質を常に見極める必要があるのです。

そして最初に書いた“神話体系的ものがたりの医学”についても、世の中には様々な神話があり、宗教があり、時にはそれがもとで戦争さえ起きるものであるのだ、ということも忘れずに――。

執筆者プロフィール

糸数 七重
糸数 七重日本薬科大学漢方薬学分野講師・同大学漢方資料館学芸員
東京大学薬学部卒。同大学院薬学系研究科修士課程・医学系研究科博士課程修了。博士(医学)、薬剤師。

沖縄県石垣島字石垣出身の父、字登野城出身の母の間に生まれ、石垣と東京を往復しつつ育つ。
学部学生の頃より漢方医学をはじめとする東洋医学に興味を持ち、漢方薬理学を専攻する傍ら薬膳についても学ぶ。国立医薬品食品衛生研究所生薬部研究員、武蔵野大学薬学部一般用医薬品学教室助教を経て現職。
現在は台湾・中国医薬大学研修派遣研究員として日本と台湾を行き来しつつ、漢方および薬膳に関する研究を行なう。一方でヨガをはじめとする東洋のボディワークについても学び、活動する身体を支える医療と食についても研究・実践を深めている。