<連載第7回>

 

「証(しょう)」の概念

漢方を最も強く特徴づけるのは何か――。

様々な意見がありますが、「証拠の医学」がベースとなる現代社会において「ものがたりの医学」である漢方を「安全性・有効性の保証された」医薬品として位置付けるための仕事を行なってきた私には、漢方の最大の特徴は「証(しょう)」の概念ではないかと思えます。

「証」とは――様々な定義がありますが、個々人の身体の性質や置かれた状況、状況への反応力、そして何か不調や疾患を得た場合はその症状のありようを表現するもの、というのが、ひとまずは取り落としのない言い方でしょうか。そしてこの「証」は、漢方処方の運用において非常に重要な役割を負っています。ひとつの処方を同じ疾患、あるいは症状に対して用いるのでも、この「証」が“合った”ならば薬は不調や疾患を治癒させ、“合わなかった”ならば効果がないどころかかえって有害作用をもたらすことさえあるのです。

 

複数の人を治療する場合、身体の同じ組織や器官に同じ不調があるようにみえても、それぞれの「証」が異なれば用いるべき処方も違う――すなわち、同病異治(どうびょういち)。
一見、全く異なった組織や器官に症状が現れているようでも、「証」が同じであれば同一処方で対処できる――すなわち、異病同治(いびょうどうち)。

 

漢方は胡散臭い?

上記の特徴は、漢方の大きな特徴でありながら、一方では「漢方は非科学的である」という誹りの主な原因となってきました。

なにしろ、現代医学において「科学的」であるには、恣意性の入らない比較試験によって差が見いだされないとなりません。例えば、疾患Aの新たな治療薬が従来のものより有効であるという科学的な証拠を得るには、疾患Aの患者を集めて無作為に(つまりランダムに)グループ分けし、一方のグループには従来の治療薬、他方には新薬を使用してもらって(もっと言うならば、投与する試験者も服用する被験者も自分が使っているのがどちらの薬かわからないようにして)新薬が従来のものより好成績であるという証拠を示さねばならないのです(これをランダム化比較試験と言います)。同病異治などと称し、同じ疾患を有すると診断されていても特定の処方に反応するものとしないものがいる、などと言い出すのはインチキではないかというわけです。しかも比較試験を行なって差が出なかったら「証をきちんとみなかったからだ」などと言い出す、いよいよ胡散臭い、と。

 

――本当にそうでしょうか?

――疾患名に対する適応、というのは、漢方処方の有効性を証明する際に、本当に適切な“切り分け方”なのでしょうか?

 

結論から述べますと、西洋医学の疾患名(診断名)を漢方処方の適応を決めるのにそのまま使用して「効かない」だの「インチキ」だのと言うのはずいぶん乱暴でひどい、と私は考えています。

そもそも、漢方でいう“五臓六腑”が解剖学的な臓器とは異なるという点ひとつとっても身体システムのとらえ方が違うとわかるのに、「西洋医学ベースで診断した疾患名は異なるシステム上で運用されるものを評価するにあたっても絶対的なものとなり得る」とどうして言えるのだろう、評価手法については同様にランダム化比較試験を行なうとしても、グループ分けの基準を西洋医学で診断した疾患名でなく、「証」を用いて行なってもよいではないか――。

 

とはいえ、「証」の概念は疾患名に比べるとかなり複雑です。学派によって「証」の判断に差異が存在することもあります。そのため、「証」のみを基準として漢方処方の有効性を証明しようとしても、十分な大きさの母集団を得ることは困難です。

さらに付け加えると、日本の漢方では診断・治療の方法を「方証相対(ほうしょうそうたい)」と言います。これは例えば葛根湯が効く状態を葛根湯証と称する、というもので――ここまで来るとトートロジーに陥り、比較するという行為自体が成立しなくなってしまいます。そんなこんなで私が学生時代に妄想した「診断法を東洋医学仕様に切り替えてランダム化比較試験を行なえば、西洋医学の医薬品と同様に漢方のエビデンスが得られるじゃないか!」は未だに妄想のままです。

 

だからといって「証」をいつまでも謎めいた存在のままにしてもいられません。明治時代に一度、理論ごと失伝した漢方――「ものがたりの医学」の処方は、「証拠の医学」たる西洋医学ばかりが大規模に共有された状態の現代社会に、医薬品としてなんとか復活できたのです。ここで「理解して使用できる」医薬品として立場を確保せねばなりません。「証」を何とか理解してもらわねばならない――というわけで、やや力技とも言うべき“語りなおし”、もっと言うと単純化の作業が行われました。

 

不安を拭い去る「しばり」

極端に単純化すると「体力の有無」も「証」のひとつの指標ということになります。

“単純化しすぎて本質を失っている”という苦言をいただくことも実はあるのですが、「一般用医薬品――一般生活者が(薬剤師等のアドバイスを受けつつ)自己責任で購入し、使用する医薬品、もっと具体的には、処方箋なしで、薬局やドラッグストアや最近ではネット通販等でも購入できる医薬品――の中の漢方処方の説明に「証」の概念を幾分かでも盛り込む」という仕事に、私は関わりました。

“一般用”ですから、説明を読む対象は一般生活者です。そこに記載された文言が自分の身体の状態に対応するかどうかが、医学的な専門知識、ましてや漢方的な専門知識がなくても理解できるものでなければなりません。そこでこの時我々は、一般用漢方処方の箱書き、すなわち医薬品のパッケージの裏側に小さな文字でぎっしり記載されている部分の「効能・効果」として示される項目の直前に「しばり」として「体力虚弱」「体力やや虚弱」「体力中等度」「体力やや充実」「体力充実」あるいは「体力に関係なく使用できる」のいずれかの文言を記載するようにしました。

“頭痛”や“発熱”、“腹痛”などの「効能・効果」として従来提示されてきた症状だけでなく“体力”をはじめとする身体条件を付記することで、漢方的な知識がなくても可能なある程度の判断を誘導し、結果的により個々人の「証」に合った、すなわち効果の得やすい漢方処方の選択を行なえるようにする、というのがこの時の作業の目的でした。

そして、「証」が何かは理解されにくいとしても、漢方の使用にこの種の「しばり」がついているということについて「そういうものだ」と受け入れられたならば、漢方処方を使用する際に漂いがちな“どこか胡散臭い不安な感じ”はいくぶんなりともぬぐえるのではないか――ということも、我々は期待していたのです。

 

これは、「使用する処方を決めるにあたっては身体の性質や状態を(それがおかれた条件まで含めて)細かい観察が必要である、単に身体に現れた症状や、ましてや他の医学の文脈でつけられたおおざっぱな名前(西洋医学による診断を漢方側から見ればこのようにも言えるのです)では決定できない」という“漢方側のいいぶん”と、「なるべく機械的な比較試験によって有効性が見いだせなければそれは有効ではないのだ、人間の恣意的な判断は忌むべきものなのだ」とする“西洋医学側のいいぶん”の落としどころを探った結果でもありました。

――恣意ではない、的確な使用のために、より細かい説明や区分が要求されているだけなのだ、と。

「既製」から「テーラーメイド」へ

そして、少しばかりこの先についての空想めいた話を書いておきます。

本稿ではさんざん西洋医学の診断名を“おおざっぱ”扱いしましたが、そもそも西洋医学というのは人体や疾患に対して緻密な分析を続け、「何かが生じる根幹となる最重要の一点」を見出すことを目指すという方向性を持っています。本当におおざっぱなはずはありません。

実のところ、先進的な医科学においては、ヒトのゲノムを解析し、疾患原因となる遺伝子異常を特定する研究がなされています。ヒトの感覚を用いた観察によって記述される「証」どころの話ではないのです。いずれは特定疾患の原因遺伝子のみならず、個々人の特性を遺伝子解析によって明らかにし、その人にとって最適な治療や疾患回避方法を提供できるようにする、というのが、この種の研究の目標です。これをテーラーメイド医療と呼びます。

既製服の中から“ひとまずサイズの合った”ものを選ぶのではなく、テーラーで生地やデザインを指定し、採寸してもらい、自分の身体にぴったり合った服を最初から仕立てるような医療、というわけです。

 

テーラーメイド医療はまぎれもなく「証拠の医学」であり、そしてこの時の「証拠」はランダムなデータを比較した結果などではなく、個々の遺伝子データということになります。証拠の蓄積と解析は着々と進みつつあります。AIの導入によって研究は一気に加速していくでしょう。さほど遠くない将来、この「テーラー」はまずごく一部の人を相手に「開店」し、やがて「一般向けのラインを展開」していくでしょう。それに伴い「そこまで精密ではなく、ヒトの感覚や主観といったあやふやなものを用いて判断する」漢方をはじめとした「ものがたりの医学」は、ゆっくりと役目を終えていくのかもしれません――いや、ひょっとしたらテーラーメイド医療とは別種の細やかさが評価され、やはり残っていくのかもしれません。

 

実は一時期、「証」の概念を持つ漢方こそが実際的なテーラーメイド医療なのである、と漢方関連の研究者が主張していたことがありました(遺伝子の包括的な解析結果と「証」を対応させれば、漢方は一気に最先端科学の裏付けを得られるだろう、という希望的観測もあったのです)。遺伝子解析結果を基にした医療が一般的になるのはまだずいぶんと先の話であろう、それまでは「証」を細かく観察して処方を提供しうる漢方こそが「もっとも細やかな選択」なのである、と。ただ、現在の技術の発展速度からすると、「漢方が実際的だから有用性を認められる」期間は、あったとしてもそう長くはなさそうです。

 

では、漢方は早々に「役目を終える」のか――それもまた異なると私は考えています。

本来的な意味での「テーラーメイド医療」が一般的になった時、漢方については現在のように「いろいろと細かいことを言いすぎる」から非科学的だと言われることはよもやないでしょう。そして現状程度には必要とされ続けているのではないでしょうか――あるいは現状よりももう少し余分に。

今となっては、さすがに「漢方=テーラーメイド」は買いかぶりすぎだろうと思えます。せいぜいでセミオーダー、けれど、店主が客の好みを一生懸命聞きながら、たくさんの型紙のストックの中から一番よさそうなものを選んで仕立ててくれる店、という例えがより近いでしょう。そしてヒトは“ものがたりたい”自我を持った存在である以上、「店主が客の好みを一生懸命聞く」、つまり「システム上、運用にあたって個々人のものがたりが実際にやりとりされる必要がある」ということこそがキモとなるのではないか――と、私は考えているのです。

 

執筆者プロフィール

糸数 七重
糸数 七重日本薬科大学漢方薬学分野講師・同大学漢方資料館学芸員
東京大学薬学部卒。同大学院薬学系研究科修士課程・医学系研究科博士課程修了。博士(医学)、薬剤師。

沖縄県石垣島字石垣出身の父、字登野城出身の母の間に生まれ、石垣と東京を往復しつつ育つ。
学部学生の頃より漢方医学をはじめとする東洋医学に興味を持ち、漢方薬理学を専攻する傍ら薬膳についても学ぶ。国立医薬品食品衛生研究所生薬部研究員、武蔵野大学薬学部一般用医薬品学教室助教を経て現職。
現在は台湾・中国医薬大学研修派遣研究員として日本と台湾を行き来しつつ、漢方および薬膳に関する研究を行なう。一方でヨガをはじめとする東洋のボディワークについても学び、活動する身体を支える医療と食についても研究・実践を深めている。