<連載第6回>

 

ここまで、「ものがたりの医学」とは何かということ、それを「西洋医学とは異なるもの」とまとめるにしても種々様々なものがあること、また、それらを利用するにあたって「それぞれにより適した(つまり、利用する人の心身がより快適になりやすいであろう)」態度があることをお話してきました。

では、そろそろ具体的な話題に進みましょう。

 

漢方とは何か

私の専門は漢方です。ですから「ものがたりの医学」の中でも、特に漢方(およびそれに関連するものとしての中医学)を取り上げて話をしていきたいと思います――が、その前に、漢方とは何か、中医学とは何か、それらは東洋医学の中でどう位置付けられているか、ということをざっと説明し、漢方および東洋医学というものの輪郭だけでもイメージを持っていただけるようにしたいと思います。ですので、本稿には“新しいものの見方”はありません。漢方および東洋医学の歴史と現状についてのまとめが述べられています。教科書のダイジェストのようなつもりで眺めていただければと思います。

 

まず、漢方とは何かということですが――これは中国伝統医学に端を発する日本の伝統医学です。“漢の方”だから中国の伝統医学であると思われたり、最近では中医学と混同されたり(これは現在学術的な国際交流が盛んになり、日本にも現代中医学を学んだ医療関係者や研究者が増え、中医学に関する書籍の出版なども増えてきたことから“中医学”の語が生活者の目に触れる機会が増えたためではないかと考えています)、少し変わったケースでは「漢の時代に日本に渡ってきて日本で保存されてきたもの」と理解されたりすることまであるのですが、いずれも異なります。

 

「漢方」という名乗りの始まり

現在、漢方医学として実践されているものが「漢方」の名で呼ばれるようになったのは比較的新しく、早くとも江戸後期とされています。それまでは日本で“医学/医療”として学ばれ、実践されていたのは現在「漢方」と呼ばれているものがほとんどであり、それ以外に“イイツタエ”的な薬草等の利用が行われているという状態でした(ちなみに現在「和漢薬」という言葉がありますが、この“和”薬は「イイツタエ的な文脈で用いられるもの」、“漢”薬は現在「漢方の名のもとに実践される医学・医療において用いられるもの」とほぼ等しくなっていると考えてよいでしょう)。

その後、江戸後期、出島に駐留するオランダ商館医を介して当時の西洋医学を学び実践する医師を蘭方医と称したのに対し、従来の方法で治療を行なう医師を漢方医と呼んだのが「漢方」の語の始まりです(なお、現在漢方を実践する医師を「漢方医――日本では医師免許さえ取れば漢方を扱ってよい制度となっているため、「漢方を使いこなせる医師」というのがより正確な表現ではありますが――」と名指すのに対し、わざわざ「西洋医」と呼ぶのは特に「扱っているのが漢方医学でなく西洋医学である、あるいは漢方は扱わない」ことを明確にしたいときだけであるのと同様に、江戸時代においては漢方を実践するのが普通であったため、わざわざ「漢方」と名指す必要が出てきたのは明治に入り、西洋医学のみが正統な医学であると定められて以後であるとの指摘もあります)。

そして「漢方」の意味は、字義どおりに言うなら「漢代に成立した医学」です。その実際はというと――以下の簡略的な図を使いながら説明していきますが――「漢代に成立した医学に端を発する。以降、中国で発展した医学が絶えず“最先端の医学”として日本に移入され、日本の気候風土や文化、日本人の体質、使用できる医薬品材料等の影響を受けつつ実践され続けることで独自の発展を遂げ、漢方と称されるようになった医学」です。

 

図S6-1

 

 

連載第3回でも書名をご紹介した漢方医学の三大古典(この話題については、今のところ中国医学の三大古典と言い換えても間違いにはなりません)と称される書物のうち「黄帝内経(こうていだいけい――人体の仕組みについて記す)」は前漢代に成立したと伝えられ、また残る「神農本草経(しんのうほんぞうきょう――薬物365種類の性質を記す)」および「傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん――傷寒論(しょうかんろん)、金匱要略(きんきようりゃく)の2冊を併せて称する。それぞれ急性熱性疾患および慢性疾患の治療法について記す)」は後漢~三国時代の、おそらく紀元後200年前後に成立したと伝えられています。身体の仕組みと医薬品のリストと治療法が共有されていれば、それなりに系統だった医療を実践するための必要条件は揃ったといえます。ですから、中国医学の歴史の中で現存する、それぞれについて最古の書物であるこれらを、「中国医学の三大古典」と称するのです。

ところで、そのころの日本は弥生時代に相当します。『魏志倭人伝』に記述があるように中国との交流はあったものの散発的であり、また医療についても系統だったものというよりはシャーマニズム寄りの治療が行われていた、と、現在のところは考えられています。ですので「漢代に日本に伝わったから漢方医学と呼ぶ」のではありません。

 

中国の文化がある程度のまとまった形をもって日本に流入するようになったのは、遣隋使・遣唐使の派遣が行われるようになってからです。そして中国医学もそれと同時に系統だった形で日本にもたらされました(上図では省略していますが、いわゆる“三大古典”以後も中国では多くの医書が成立しており、隋唐代に成立した医書・医学も当然日本に持ち込まれています)。

鎌倉期には主に学僧たちによって、仏教学とともに宋代の医学がもたらされます。この宋代の医学というのは中国医学および漢方医学の根幹をなすともいうべきものです。「黄帝内経」「傷寒論」「金匱要略」の改訂編纂が宋代に国家事業として行なわれ(これは“宋改”と呼ばれます)成立年代もあやふやで散逸も多い“三大古典”はここで現代から見た場合の実質的な“底本”となるのです。“三大古典”を“三大古典”たらしめたのは宋代の医学者たちであるといっても過言ではありません。

金・元代には陰陽五行説に基づきつつ発展してきた理論医学が臨床医学とより強く結びつき、新しい医学と治療法を生み出しました。戦乱や生活様式の変化、あるいは逆に商業の発展による交流の拡大などによって疾病構造が変わり、具体的には新たな伝染病が発生してこれまでの治療法だけでは追いつかず、新たな処方が求められたためと言われています。新たな処方が求められてもやみくもに試してみるというわけにもいきません。ですので、手持ちの理論医学――主に「黄帝内経」のうち「素問」の部とされています――を参照し、それに則りつつ医薬品――この場合は生薬ということになりますが――の新たな組み合わせを考案し、効果的な処方を探し求め、その一方で理論医学の今まで言及されていなかった部分を補い、より細やかなものにしていく、という作業が行なわれていったのです。処方も10種類以上の生薬を組み合わせる複雑なものが多く成立しました(現在でも、こじらせ長引いた風邪から、がん化学療法の副作用軽減に至るまで幅広く使われている、補中益気湯(ほちゅうえっきとう)という処方などもこの頃の成立です)。

明代には李時珍により「本草綱目」が記されました。1900種にもなんなんとする生薬が収載され、中国本草書(薬物リスト)の決定版とされました。なお、現代の中国語圏においても、本草綱目は伝統本草学の基本書と認識されています。

 

その後、清代を経て中華民国が誕生します。清代末期からは中国にも新たな医学として西洋医学が流入し、二系統の医学/医療が学ばれ、実践されるようになってゆきます。

そしてこの“二系統の医学”というスタイルは、中国(そして台湾も)では現在まで制度として維持されています。もちろん、現代に至るまでに中医学は西洋医学の影響を受けました。むしろ、清代まで積み重ねられてきた伝統的な中国医学が西洋医学の影響を受けながら整理されてゆくことで、現代の中医学が形成されたといったほうが正確でしょう。その上で、現代中国(および台湾)では、気・血・水などの概念を用いて身体や疾患について説明し生薬を組み合わせた処方を用いて治療を行なうのは中医師免許を持った医師、西洋医学に基づいた治療を実践するのは西医師免許を持った医師、と制度がわかれているのです。もちろん中医師養成のカリキュラムには現代科学も西洋医学の基礎も含まれており、西洋医学に全く触れることなく中医学を実践する中医師は現代にはいないのですが。

 

受け入れ、調整し、整理する

一方、日本では何が起きていたか。

中国との交流を行ないつつ、その当時まとめられた医学を常に取り入れ、知識を刷新し続けながら、それらを日本という土地、日本人という身体――あるいは古来の(イイツタエ的な)治療知識に馴染ませていくという作業を行ない続けていったのが日本の医学の歴史です。全体に日本の気候風土は中国のそれに比べて温和であり、日本人の体質についても疾患や医薬品に対する反応があまり激しくないので、薬の使い方が異なっていったのだ、という説もあります。中国から入ってくる医学で用いる薬の原材料は当然中国に産するもので、高価な輸入品に頼るか日本で代替物を見つけねばならなかったため処方構成における生薬の使用量が大きく異なるようになっていったのだという説もあります。ともあれ、「受け入れ、調整し、整理する」という時代が長く続きました。

 

が、1700年頃に日本の医学はひとつの転換点を迎えます。

金元代に一気に理論医学に接近した中国伝統医学は、以後、複雑化してゆき、日本人はそれを学び続けてゆくのですが、1700年頃、すなわち江戸後期に「理論ばかりいじっていても意味がない、症状と与えるべき医薬品が対応して疾患が治せればよいのだ」と提唱する医師たちが現れます。唐代以降積み重ねられてきた知識はいったんさておいて、まず傷寒論に記載された治療法をシンプルな理論を援用しながら使いこなすべきだ、理論に頼りすぎないことから患者の症状をよく観察するようになり、的確な治療が行える――というのが彼らの主張でした。古代にかえれ、というラディカルな主張から彼らは「古方派(こほうは)」と呼ばれ、従来の医師たちは「唐代以降の(漢より後の世代の)医学を実践するもの」として「後世方派(ごせいほうは)」と呼ばれるようになりました。その後、理論偏重が良くないというのももっともだがあまりにラディカルなものも良くないということで、折衷派と呼ばれる学派も生まれましたが、結局主流となったのは古方派でした。

だからこそ「蘭方」に対して、伝統的な医学・医療は「漢方」と呼ばれるようになったのです。現代の漢方は、この古方派の考え方や傷寒雑病論に記載された処方の使用を主軸としつつ、それ以降に作られた(特に金元医学の)有用な処方も多く使用するものとなっています。

 

ところで、中国および台湾には「中医」と「西医」が制度として分けられて存在します。しかし日本では「医師」は一種類で、そして医師でさえあればどの系統の医学/医療も実践してよいとされています。その一方で、漢方は何かまじないごとのように思われたりブームになってみたりとどうも立場が安定しません。これは明治初期に脱亜入欧的な政策の影響で漢方が正規の医学教育から外され、「未開のもの、触れるべきでないもの」のように扱われた時代があったためです。漢方が学ぶべき医学の系統から外されたので医師は一系統のみとなりました。また、漢方は一度“アンタッチャブル”なものとなった後、昭和に入ってから「やはり漢方医学を復活させるべきだ」とする一部医師らの主張が、薬害などのために西洋医学に対する不十分感が拡大し始めた時流に乗ったことから――ある意味、きわめて政治的な経緯で――復権しました。これが現代日本において漢方を取り巻く状況がどこか不安定なものである原因となっています。

とはいえ、現在では医学・薬学の双方のコア・カリキュラム(医師・薬剤師となるために必ず学ばねばならない事項)に「漢方の基本について理解し、説明できること」と記載されてはいるので、漢方は日本の正規の医学に含まれてはいるのですが――。

 

 

漢方の歴史と現状はざっとこんなところですが、では、それ以外の東洋医学との(そして西洋医学との)関連性はどうでしょうか――これも簡略図を用いながら説明していきたいと思います。

 

 

図S6-2

 

 

現代において三大伝統医学とは、中国伝統医学、アーユルヴェーダ、そしてユナニ・ティブを言います。このユナニ・ティブというのはギリシャ医学(主にガレノスの四体液質理論)をベースにアラビア文化圏で発展し、現在もインドおよびパキスタンのイスラム文化圏で実践されている医学です。曰く、人間の体内には血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁の四種類の体液があり、それらのバランスが乱れると病が生じる。曰く、世界は土・水・火・空気の四つの元素から構成される。曰く、それぞれの元素は熱性・冷性・湿性・乾性のうちから2つずつの性質を有する…。東洋で発展しながら西洋の根を持つのが特徴で「西洋医学の基礎となった」とも言われます。が、実際のところこれは言い過ぎの感があります。確かに「四大元素」は非キリスト教的な中世ヨーロッパの世界観として容易に受け入れられます。また、ユナニ・ティブは16世紀までのヨーロッパの大学で教えられ、19世紀ごろまではヨーロッパでも実践されていたという記録があります。とはいえ、近代西洋医学の世界観は全く異なったものです。西洋の近代科学は「新しいことを発見しながら従来のものを非事実として捨て去る」という作業を行ないながら発達してきたとも言い換えられるでしょう。

 

中国伝統医学とアーユルヴェーダ

一方、中国伝統医学とアーユルヴェーダはそれぞれに文化圏を形成し、現代までそれなりの勢いを維持しながら実践されています。

アーユルヴェーダは主に南インド地方で発展した医学です。ヒンドゥー教の文化と混然一体となりながら、人間の身心は風(ヴァータ)・火(ピッタ)・水(カファ)の3要素で構成され、このバランスが崩れること、および飲食したものの消化が不十分で体内に毒素がたまることで疾患が発生すると説明します。また、人体を含む世界は地・水・火・風・空の五大元素で構成されるとしています(ユナニ・ティブの四大元素は、この五大元素から概念性の高い“空”を抜いたものともいえます。アーユルヴェーダとユナニ・ティブは同じインド亜大陸内に現れたことから、その成立過程において影響を与え合ってきたと考えられています)。

ヒンドゥー教や仏教の伝播と共にアーユルヴェーダは周辺地域へと広まってゆきました。チベット医学、ジャムウ、タイ医学はアーユルヴェーダの世界観、人体観を基礎としながらそれぞれの地の気候風土に合わせ、その地で手に入れられる資源を薬物として応用することで独自性を獲得してゆきます。チベット医学はさらにモンゴル医学に影響を与えます。チベットやモンゴルは中国文化圏と隣接することから、世界観はアーユルヴェーダ系でありながら、診断技術や使用薬物について、中国医学の影響も相応に受けてゆきます。アーユルヴェーダそのものについても、例えば脈診や鉱物薬の使用に関して中国文化圏と影響を及ぼし合ったのではないかという説もあります――ただし、ヒンドゥー文化圏においては、サンスクリットで記述された内容が聖典の一部とされた時点で「神様から直接授けられた智慧の体系」という認識になってしまうため、成立経緯においてはなかなか明確にしづらいのですが。

 

対して、中国伝統医学はもっと即物的です。現存がたどれる最古の医学書である「黄帝内経・素問」には「東方の石鍼、西方の毒と薬、北方の灸、南方の鍼、中央の導引や按摩(体操やマッサージ)」とそれぞれの地域にその気候風土や暮らしぶりに適した治療法があり、名医はそれらを知悉し、同一の病気に対しても状況に応じて最も適切な手段を講じて治癒させるのである、という記述があります。このことから、中国文化圏の各地域に様々な治療法が存在し、それを集大成し系統だてることで医学が成立してきたことが伺えます。そうして成立した医学はやがて日本や韓国へと伝播していき、それぞれの地域で発展していくのです。

そして、中国伝統医学もやはりユナニ・ティブやアーユルヴェーダと似た構造を持ちます。健康な生命活動は気・血・水の三要素がバランスよく巡ることによって維持され、世界は木・火・土・金・水の5つの行、すなわち元素の関わり合いで成立する、というのです。

 

どちらかが正しくて、どちらかが間違い?

さて、漢方、そして東洋医学、というものを駆け足で大づかみにご紹介してきました。東洋医学、あるいは伝統医学というものが、互いに影響を及ぼし合いながら成立していること、そしてとても似た構造を持つことにお気づきになったかと思います。

もちろん各論で言えば異なる面も多いでしょう。推奨する食生活ひとつとっても、しっかりと火を通すことを推奨するものもあれば、新鮮なもの、できれば生なものが良いとするものもあります。

伝統医学の実践者から「○○は(自分の実践する考え方からすると)誤った養生法を勧めているから信じられない」等の言葉を聞くことが度々あります。けれども、こうやって様々な伝統医学の成立過程を見た後からは、こういう解釈はできないでしょうか。

――それぞれの気候風土や体質に合わせて実践されていくうちに、より「その地に即した」ものに変化した、その結果を一人歩きさせて比べている状態なのではないか、と。ちょうど、神話や伝承などの実際の「ものがたり」が伝播していきながら徐々に形を変えていき、ある地域同士を比べると英雄と敵役が入れ替わっていたりする、けれど、どちらが正しくどちらが間違いであるとも言えないように。

そして、今、目の前にある理論だけをみてあれこれ論じるのではなく、今、自分の身心はどの理論を応用するのがもっとも適した状態にあるのか、自身の現状と異なった状態にある人であれば別の理論が適するのではないか、そういった切り口も持っていた方がよいのではないか、と思うのです。

なにしろ素問に曰く「故聖人雑合以治、各得其所宜、故治所以異而病皆癒者、得病之情、知治之大體也――聖人と言われるほどの名医は様々な治療法を駆使して適切に治療を行なうため、結局どのような治療法を用いたとしても病気は皆治る。これは病の仕組みを知り、治療の何たるかを熟知しているからである(黄帝内経素問・異法方宜論)」ということだそうですから。

 

さて、今度こそ本当に前置きはおしまいです。次回から具体的な漢方の話をいたします。

執筆者プロフィール

糸数 七重
糸数 七重日本薬科大学漢方薬学分野講師・同大学漢方資料館学芸員
東京大学薬学部卒。同大学院薬学系研究科修士課程・医学系研究科博士課程修了。博士(医学)、薬剤師。

沖縄県石垣島字石垣出身の父、字登野城出身の母の間に生まれ、石垣と東京を往復しつつ育つ。
学部学生の頃より漢方医学をはじめとする東洋医学に興味を持ち、漢方薬理学を専攻する傍ら薬膳についても学ぶ。国立医薬品食品衛生研究所生薬部研究員、武蔵野大学薬学部一般用医薬品学教室助教を経て現職。
現在は台湾・中国医薬大学研修派遣研究員として日本と台湾を行き来しつつ、漢方および薬膳に関する研究を行なう。一方でヨガをはじめとする東洋のボディワークについても学び、活動する身体を支える医療と食についても研究・実践を深めている。