<連載第11回>

気の病

疾患像が曖昧になりやすい治療領域のひとつとして、前回は婦人科領域を取り上げました。婦人科というのは器質的な身体の変調がベースにあることを前提とできる領域です。

そもそも月経のある女性は血中のホルモン濃度がほぼ1ヶ月サイクルで変動しますので、昨日の身体の状態と今日の身体の状態が異なっているという状況が発生し、“体内環境に大きな変動がある”その影響を受けるだけでも、あまり快適でない感覚を体験しがちです。
一方で、器質的な変調の存在が発見されつつも未だ道半ば感がある領域が精神科領域です。精神科の治療領域について漢方の用語を援用するなら「気の病(きのやまい)」ということになります。

 

もちろん、現時点では様々な抗不安薬や抗精神病薬など作用機序のわかっている西洋薬が第一選択薬として存在するわけですが、これらの医薬品は主に経口投与によって脳内の神経伝達物質のコントロールを目指すという性質上、素晴らしい効果が出る時もあれば思わぬ副作用が出たり思ったほどの効果がなかったり、と、隔靴掻痒の態を呈することもあります。

どの部位でどの程度の神経伝達物質の異常が生じているのかを定量的に明確にするのも難しく、その原因も“わかるようでわからない”ことも多い――医薬品については明確であっても、それを受け取る身体の側についての知見に不完全な部分がまだまだある、それがゆえにトラブルが生じやすい、というわけです。もちろん理解が進んだ部分があるからこそ現在の薬物治療が存在し、それで多くの寛解事例が存在しているのですが。

 

そこで、漢方が有効になる場面が出てきます。
ひとつには、疾患像が曖昧であるならその曖昧さに対応可能な解釈のシステムを持つ医薬品を使うことで対処できるのではないか、という――「ものがたりの医学」の面目躍如ともいうべき理由から。そうしてもうひとつは、漢方処方は単一成分からなる西洋薬と異なり、個々の量は微量ながら非常に多種多様な物質から構成される多成分系である、という理由から。

――そう、はっきりとした作用機序をベースとする単一成分の西洋薬は“切れ味のいい”ナイフのようなものです。そして曖昧な状況の中に“切れ味のいい、大型の”ナイフで切り込んだとき、切るべきところが上手く切れたなら素晴らしい効果を発揮しますが、場合によっては切るべきでない場所をズタズタにしてしまうかもしれないのです。それよりはあちこちを押したり引いたりしながら不調の調整をしてくれるらしい医薬品を(補助的にでも)使用する方がよい、というわけです。

「気」はれっきとした「存在」

では漢方では実際に「気の病」とどう向き合うのか――
思い込みで実態がないことなどを指して「気のせい」という言い方もありますが、漢方においては「気」とはれっきとした存在です。

「証拠の医学」の観点からすれば、「気」は身体の機能や反応性を表すために無理やり名前をつけてしまっただけのものとなるかもしれませんが、漢方においては名がついた以上は(直接に見ることも触れることもできないにせよ)“実(じつ)”のあるものとして扱います。つまり精神的な不調とそれに随伴する諸症状について、その「気」に不調が生じた状態であると説明するのです。

「気の不調」は4種に大別できます――すなわち気虚(ききょ)、気滞(きたい)、気鬱(きうつ)、そして気逆(きぎゃく)。

種類が多いのは「気」が最も生命の根源にあるとされつつも、身体の機能や反応性の様々な要素についてカバーする概念であるためです。

寿命も気、呼吸も気、精神状態も気となればその不調を表す言葉もバリエーションがないとしっくりこないというわけです(「ものがたりの医学」においては、語り起こされた時に腑に落ちる感覚――納得感がないと、実用に足るものとして成立しません。不条理に感じられるようでは困るのです)。

 

気虚・気滞・気鬱・気逆

「気虚」はすなわち「気」の量的な欠如です。エネルギー不足とも言い換えられますし、平たく言ってしまえば「元気がない」状態、あるいはその状態を導く身体的な状況を指します。

実はこれに関しては、(西洋医学的な観点での)器質的トラブルに結び付けられるケースが比較的多くなっています。例えば消化器が十分に機能していないためカロリーや栄養を十分に摂取できていないこと、あるいは長患いや疲労等のために十分に身体のシステム――例えば免疫機構であったり、あるいはもっと単純に「疲労を感じずに活動する」等だったりが機能しない状態となることなど。

なお、「流路の中に流れるべきものがあまりない場合、推進力を絶えず与え続けないと流れは止まりやすい」(“蛇口にホースをつないでも栓をほとんど開かなければ水はなかなか流れ出してこない”イメージです)ため、「気虚」が長引くと気の巡りは滞りがちになり、「気滞」へと転じていくことも多々あることから、「気虚」も決して精神科領域と無縁ではありません。

その「気滞」、そして「気鬱」「気逆」が精神的な不調にそのまま結びつきやすい状態です。
「気滞」とは文字通り「気が上手く巡らず滞っている状態」ですが、これはどちらかというと「身体的な滞り感」と結びつけて考えられることが多くなります。

身体の力が抜けて動けないのではなく(それは「気虚」になります)、身体感覚として、身体のどこかに詰まりがあってうまく機能していないと感じられるなら、「気滞」と表現されるのです。いわゆる心身症は主にここに分類されてきます(例えば喉の中に何か詰まったような感覚があってうまく呼吸ができない、しかし実際に詰まった感覚を生じている部位には何の病変も観察されないなどは「気滞」の典型的な現れ方です)。それがさらに程度が強くなると、「気鬱」となります。

西洋医学的にいうところの抑うつ状態は主にここに分類されます。巡るべき気が“なんとなく動きが悪くなる”のではなく“鬱滞して非常に動きづらくなる”と、今度は身体感覚だけでなく精神状態にはっきりと影響が生じてくる、というわけです(なお、「気滞」と「気鬱」は同じものであるとする説もあります――確かに同質のトラブルで、程度の差であるともいえるのです)。身体的にも頭重感や頭に靄がかかったような感覚等が高頻度でついて回ります。
「気逆」はこれまた文字通り、気の逆上です。身体の中をまんべんなく巡るはずの気が頭部へと逆上し、怒りなどの“動きがある、そして攻撃的な”感情を伴いながら判断力を狂わせ、正常とはいいがたい言動へとつながっていく――これが「気逆」の概略です。

 

大づかみに、複層的に語りなおす

こうして書き出してみると「神経伝達物質の異常」ということではピンポイントすぎてなかなか整理しきれない、とらえきれていない――言い換えれば、西洋医学のみのケアでは対処しきれない部分が出てくる精神状態の不調について、漢方の概念で語りなおすことでなんとかカバーできそうに思えてくるのではないでしょうか。

語りなおすことができれば、漢方処方を使用するという対処方法が増えてきます。漢方では「気」の不調、特に「気滞」「気鬱」「気逆」については、「気剤(きざい)」と呼ばれる生薬の配合された処方を用います。

これは一般的に心地よい香りを発する生薬を指します。これは生薬そのものの香りをかいだ時に感ずる爽快感から「滞っている気が動く」「逆上して頭部に張りつめている気を発散させる」というイメージが生じたのが始まりであろうと考えられます。

香りがよい、ということは揮発性の高い、すなわち精油成分(アロマテラピーなどで用いる、要するに植物の香りの本体ともいえるものです)の多い生薬ということになります。精油とは油脂ではなく、揮発性の高い有機化合物の集合体(ここでも多成分系です)を指し、揮発してきた化合物の種々の分子が鼻腔内の嗅細胞を刺激することを契機として我々は匂いを感じるわけですが――この精油は非常に生物活性(生物が摂取した時に何らかの反応を引き起こす力)が高いのです。というのも、精油の本質とは“動物と違って基本的には身動きできない”植物が、置かれた環境で生き延びるために作りだした機能性成分であるからです。

 

先人たちは「香りのよさ」を手掛かりとすることで、“多成分系にして生物活性の高い”物質を結果的に選び出してきたのでしょう。そういった物質であるからこそ複数の概念が絡み合いながらひとことで表現されている「気」の不調に対してアプローチすることが可能となったとも考えられます。

これは事象を大づかみに、そして複層的に語りなおせる「ものがたり」の効用であるとも言えるのではないでしょうか。

執筆者プロフィール

糸数 七重
糸数 七重日本薬科大学漢方薬学分野講師・同大学漢方資料館学芸員
東京大学薬学部卒。同大学院薬学系研究科修士課程・医学系研究科博士課程修了。博士(医学)、薬剤師。

沖縄県石垣島字石垣出身の父、字登野城出身の母の間に生まれ、石垣と東京を往復しつつ育つ。
学部学生の頃より漢方医学をはじめとする東洋医学に興味を持ち、漢方薬理学を専攻する傍ら薬膳についても学ぶ。国立医薬品食品衛生研究所生薬部研究員、武蔵野大学薬学部一般用医薬品学教室助教を経て現職。
現在は台湾・中国医薬大学研修派遣研究員として日本と台湾を行き来しつつ、漢方および薬膳に関する研究を行なう。一方でヨガをはじめとする東洋のボディワークについても学び、活動する身体を支える医療と食についても研究・実践を深めている。