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高校へ行かず年上の友達と遊びまくる中、恋愛も破綻した宮田少年は、マルコ・ベロッキオ監督の映画《肉体の悪魔》に出会う。人生初の深い絶望に、この映画の音楽がずば抜けて響きます。パンフレットに掲載されていた音楽家の名はカルロ・クリヴェッリ。レコードを探し求めますが、なかなか見つかりませんでした。

 

知らない世界を知りたかった

六本木のWAVEにすらなく、新宿のどこかのタワーの大型レコード店に行って店員に相談したところ、何と知っていたのです。その店員は「レコードが出てないが、この曲は近いからいいのではないか」と奨めてくれたのが、スブラマニアムというインドのヴァイオリンのCDでした。OCORAというフランスのレーベルの民族音楽シリーズです。

スブラマニアム

 

スブラマニアムの演奏は難解であるにも拘らず、非常に心が温まりました。しかし、スブラマニアムは他のCDでも演奏に余り変わりがなく、このEN CONSERT以上がないのです。OCORAの他のCDも試したのですが、兎に角、高い。何枚も買えないので、次第にスブラマニアム以外、インド音楽から遠ざかってしまいました。

 

高校で早速留年し、退屈な私は本を読み始めました。はじめは夏目漱石『心』。一日20頁くらいしか読む力がなかったので、一冊読むのに一ヶ月かかりました。そしてその結末に、本を床に叩きつけました。ぬるいと。地元の六角橋商店街の古本屋に残された旧革命家達の書物、サルトルハイデガー、またはシュルレアリズムへ私は傾倒していきました。

 

この頃の私は親父が好きで避けていたジャズを探求しました。マイルス、オーネット・コールマンアルバート・アイラーセシル・テイラーのほとんどを聴きました。カーラ・ブレイとデレク・ベイリーから始まるヨーロッパジャズも探りました。ジャズとは商業的なロックよりも自由であることを感じました。

セシル・テイラーとオーネット・コールマン

 

フリージャズの本

 

しかし私は、ジャズにのめり込む事がどうしても出来なかった。ブルースやゴスペル、ファンクも含めた黒人音楽は余りにも日本人である自分とは懸け離れた存在であったのです。ブラックパワーの本も、沢山読みました。凄すぎて別の次元の世界に感じてしまったのです。日本人なのに、シュトックハウゼンが近く感じたのは、哲学の読みすぎでしょうか。

シュトックハウゼンの本

 

シュトックハウゼンで全てを悟ってしまったのでは不味いと、適当に、100円レコードでクラシックをジャケ買いしました。ロスコーの壁画でしょうか。それがたまたまスラヴィンスキー『春の祭典』だったのです。これってK・クリムゾンじゃないか。直ぐにバルトークシェーンベルクウェーベルンの虜になりました。

春の祭典

 

高校留年当時、私はバイトをしては学校をサボり、音楽と共に読書と美術館巡りで心の隙間を埋めていました。特別、美術が好きだった訳ではありません。どちらかというと、文学のほうが好きでした。知らない世界を知りたかっただけです。カンディンスキークレードローネなどが、音楽と通じていたことが重要だったのです。

 

母が私を心配してくれて、1986年の秋に開館したサントリーホールへ連れて行ってくれました。内田光子によるモーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会でした。この時のパンフレットは残っていないのですが、最近、ワルターピアノ演奏&指揮による21がとてもお気に入りで、もしかしたらこの時の記憶かも知れません。母は未だ元気です。

 

またこの頃はライブハウスだけではなく、メジャーガイタレが日本に来たライブにミーハーで見にも行きました。初めて行ったのが中学の頃、プリンスのバンドのパーカッションであったシーラ・Eを中野サンプラザで、その後ユートピアB・デュランE・クラプトンも行きました。ここでもライブがショーに見えてしまい、飽きてしまったのです。

 

この傾向は今日にも続いていて、やはりM・デイビス、シュトックハウゼン、カラヤンを見に行かなかったことは、最大に悔いています。E・インバルのマーラー、O・コールマンとこの後私の人生にとって重要な位置を占めるロイ・ハーパーは行ったのですが、たまたま知っただけで、未だに自ら率先して情報を得ようとはしていません。

 

現代音楽のコンサートも良く行きました。武満徹や高橋悠治を良く見かけました。ヤーノッシュ・ネゲシーがスタジオ200でジョン・ケージのヴァイオリンソロを引いたコンサートに行きました。「東京の夏音楽祭」だったかなあ。パット・メセニーによるスティーヴ・ライヒ『ディファランス』、セシル・テイラーソロ、マーカス・シュトックハウゼンは…。

現代音楽の本

 

クロノス・カルテットも良く行きました。有明のライブハウスでやったことを覚えています。煙草の煙を揺らし、ショットグラスを片手に現代音楽を聴く高校生でした。カザルスホールや、東京文化会館だったかなあ、大きいホールでもコンサートは行われました。この時代、様々に展開していたのですが、若くて追いきれなかった。

 

しかし私は「ライブ」よりも「レコード」が好きな訳では、決してありません。「身近な」ものを好むだけです。ライブが身近になるよう、ライブハウスでバイトしようと思ったことありましたが、結局実行しませんでした。「身近」が基本なので、オーディオマニアにもなりません。一番安いウォークマンで、いつでも聴きやすいスタイル。それだけです。

 

死も暗い。また、生も暗い

さて、世紀末のクラシックに嵌っていて留年した私の担任の鈴木先生は、自殺したがる私に対して「死も暗い。また、生も暗い。」という主題のグスタフ・マーラー『大地の歌』を紹介してくれました。ブルーノ・ワルター指揮のレコードすら貸してくれました。衝撃でした。この曲の複雑さは半端ではありません。

 

丁度、レコードからCDへの切り替え時期でした。一曲80分もする交響曲をCD一枚で集中して聴けるのも魅力の一つでした。私は特にE・インバルの指揮が好きで、1番から10番まで聴きこみました。映画監督JL・ゴダールの『マリア』で9番アダージョが使われていた偶然もありました。『ベニスに死す』は耽美的で一回見れば充分でした。

 

しかし所詮高校生、尚且つクラシックの基本を勉強していた訳でもないので、一曲を覚える=体に入れるのは、至難の業でした。私の高校生活とは1年生3回、2年生3回で3年生になれず中退しました。18歳頃だったのかなあ、M・フーコーの『狂気の歴史』を読むのに一年くらいかかった気がする。本は読んでいたが、太刀打ちできなかったのです。

 

2000年、30歳で大学院に入った頃は、『狂気の歴史』は二日で読めるようになりました。或る時は広尾の都立中央図書館に籠もり、また或る日は家で一日論文を書いていました。一週間に12,000字一本書き、各ゼミで発表することを自分に課したのです。するとマーラーの交響曲全集を一日で聞く日が繰り返しました(笑)。

 

 

自分て、何やってんだろ

時代が前後してしまいました。貧乏だった我が家は母親が「公立の金額で私立の勉強ができる」と思い込んだ割には「受かればラッキー」程度で、本当に私は国立の附属小学校に入学。年長生で幼稚園を含む世の中に「ブチギレ」てストライキした私がこの小学校に合う訳がなく、我慢に我慢を重ねたが中学で爆発、登校拒否。

 

出席が足りないのに行けた高校は正にスクール・ウォーズ。知らないか。荒れた高校、ですよ。そこも合わずに行かなくなるから留年する。しかし自己の傲慢と間抜けから脱したいし、誰かの奨めもあって、二年間生徒会長を勤めました。すると「学校辞めないでくれ」と校長から頼まれる。そして続ける。

 

徐々になにやってんだろ、って思う。自分て何だろう、と悩む。長津田駅の階段をあとどのくらい上り下りすれば終わるのだろう。まるでシーシポスじゃん。思い切って、辞めました。バンドもやだ、ライブもつまらない、次第に音楽への興味をなくしていきました。つまり、自分に飽きてしまったのです。本は読んでいた気がする。

 

それでも音楽を探しには行っていた。大学検定試験の予備校に行き、バンドもちょっとやった。コピーから即興に移行したが、ライブまでには至らなかった。バンド辞めてから5年振りだったが、とても懐かしい気がして、今思うと、付き合いでやっていたんだなあと、当時の仲間に申し訳ない気がしてくる。本当にごめんなさいね。(続く)

 

執筆者プロフィール

宮田 徹也
宮田 徹也美術批評/研究
1970年横浜生まれ。中学不登校、高校1年生を3回、2年生を3回やって中退。大検合格から自己推薦で和光大学に入学。6年かけて卒業、浪人を経て修士課程入学、普通に修了。街をさ迷い、批評活動を開始。専門学校、予備校の講師、大学の非常勤勤務。小さな新聞や雑誌、美術展のパンフレットなどに執筆。敗戦後日本前衛美術、ダンス、舞踏、音楽、デザイン、映像、文学、哲学、批評、研究、思想を交錯しながら文化の【現在】を探る。