複雑な感情を携える

ここまで書いていて、確認しなければならない事項が幾つも生まれてきた。

先日、とあるアーティストから言われた。「宮田さんは言葉にするのが上手いからいいね。私はアーティストだから、自分の思いを上手く口にすることができない」と。

 

これは本当、一般論で、私はそうとは全く思っていない。寧ろ逆で、言葉こそ全くの非力で、思いを伝えることができないのではないかということを前提としている。

書くこと、喋ること、常にこれで伝わっているのか、不安である。

 

言葉なんて外国どころか、国内さえも方言が全く理解できない場合が多々ある。方言は他の国の人間が入ってこないための装置であったらしい。

最近はそれほどではないが、何を言っているのか分からない若者言葉なんかもあった。

 

世代の違いだけではなく、寡黙な人や口下手の人は何も言ってくれないので、どう接していいか分からなくなる場合がある。しかし時間をかけて一緒にいると、相手が何を言いたいのか、分かってくる場合が多いはずだ。

 

言葉は「方法」に過ぎない

つまり、言葉はただの「方法」であって、言葉によって伝達すべき重要な「内容」が伴っていなければどうにもならないのであろう。

私は外国語はほとんどできないし、外国へ行った際にも、挨拶などのその国の最小限の言葉しか使わない。それでも会話が成立する。

韓国テグへ行った時、飲み屋で呑んでいたら主人が私の酒を勝手に呑んで、ハングルで話しかけてくる(笑)。酔った私は日本語で感じたことを話す。

このキャッチボールが続き、ハグして帰った。酒代はついていなかった(笑)。

 

新生児に話し掛けることも重要だ。

日本語が通じるか通じないかなど問題ではない。ともかく、目を見て語り続ける。

すると、何時の間にかこちらがいうことを理解し、自らも喃語から日本語へ変化する。この変化が本当にもったいない。常識なんていらないのに。

 

あきらめずに話し、書く

あきらめず話すこと、書くこととは、言葉にすることのテクニックではない。何を伝えようとするかだ。それこそ、アートの世界で重要な事項であろう。

言葉にできない自らの発想や感動を作品にする。作品は、外国語を修得しなくとも見れば理解できる。

これが本当のアートなのだ。ただ綺麗なだけ、分かりやすいだけでは単なるインテリアである。

言葉は「内容」が重要だと私は定義したが、人間の感情とは機嫌がいい、悪いだけでは捉えられない。複雑な感情が幾つも絡み合っている。

 

このような複雑な感情を読み取るのは、短絡的な、近代的な「分類」で為されるはずはないのだ。

嬉しいけれど悲しい、できるはずなのに直ぐに行動できない、どのような感情が自らに溢れているのかわからなくなる。だから人間でいいじゃないか。

 

上手く喋るとしなくてもいい。綺麗に描いたり演奏したりできなくともいい。人間らしく、複雑な感情を保ち、自分以外の誰かに伝えようと努力すればいいのではないか。

何もしなくとも、一緒にいれば、心は通じ合う。

 

2月の日の出

野良犬がいた時代

前回の連載で、野生の蝉がいることに感動したことを書いた。

前回の連載の裏テーマは生と死であったが、それはどうでもいいとして、なぜここまで感動したのか、その話の続きは何かを記さなければならない。

 

私が子供の頃、1970年代は、野良犬が沢山居た。ゴミ箱を漁ったり、からかえば追っかけてきたりして怖かったが、普通にしていれば、今日、そこら辺にいる野良猫のように可愛い存在であった。特別に飼う必要もないほど、犬は身近な存在であった。

その野良犬たちが、ある日を境に消えた。

それは、我が家近郊のことだけではなく、日本全国とまでは行かなくとも、ある程度の場所で同様だったに違いない。1970年代後半か、1980年代前半か。今では完全にいなくなった。

駆除されたのであろう。犬は人間に懐くから駆除しやすいのだろうか。

これが、未だ鴉に及んでいないことが不思議だ。今日の科学の力を尽くせば、鴉の全滅など簡単なことであろう。1980年代に「除菌」が異常に流行ったことを覚えてないか。

 

今日ではそれほどではないが、家に蚊が一匹でも入ったら大騒ぎであろう。葛飾に住んでいた時は6階だったのでその密封性に驚いたが、今住んでいるところは1973年に建てられた建物の3階である。こちらのほうが、我らにとって住み心地がいい。

風通りがいいので、クーラーをつけずに網戸にしておくのだが、網戸が古いので、時々風の力で空いてしまう(笑)。その隙を見て、蚊、時には蝿が入ってくる。しかし、軽く煽ると外へ出て行ってくれる。生き物がいるっていいなあと思う。

 

人間はいつでも全てを駆除できる

鴉はゴミ箱を漁るし、怒ると新生児を突っついて殺してしまうので、害鳥とされる。しかし、鴉に罪はない。

ゴキブリはほんの僅かな水しか飲まないそうだ。ゴキブリ自身ではなく、ゴキブリにつく黴菌が疫病をもたらすらしい。

そう考えると、鴉もゴキブリも可哀相になる。

多くの人々に人気の野良猫も、嫌いな人にとっては庭を荒らす、家に入って食材を盗む害獣だ。ここで重要なのは何が益獣で何が害獣かではなく、人間はいつでも全てを駆除できることにある。

 

ゴキブリは核戦争で人間が滅んでも生き延びるという説があるが、今日の科学が本気を出せば駆除は可能であろう。

どのような駆除かは私の知る由もない。ただ、肉体を叩いて滅ぼすだけではない気がする。

 

原子爆弾は、ただ爆発して熱と風で外側を破壊する、原始的な装置である。ある特定のDNAを持つ人間を滅ぼすウイルスなど、簡単に開発できるのではあるまいか。

また、心を壊す兵器が出来れば、それだけジェノサイドは楽勝だ。私はこのようなことを危惧しているのである。

 

 

手間隙かからない人間などいない

我々は、自分たちで創った時計という機械によって、自分が管理されると共に、自分を管理している。最近は電子時計によって、完全に正しい「時間」というものが実現されている。でもそれってどうなの?

私はデジタルの時計を、限りなく見ないようにしている。妻のお父さんに戴いた、アナログ腕時計を愛用している。電池と手巻きが併用されているので、家にいると一日で止まってしまう。いちいち巻いて時間を合わせるのだが、だからこそ信頼できる。

手間隙かからない人間などいない。いたらそれはロボットじゃないか。

私は鞄、靴、服といった物の物持ちがとてもいい。いいものでなければ買わない。修理したり、磨いたりして一生付き合いたい。いいものとは高いとは限らない。ダイソーのトングも10年使える。

アナログ時計を眺めると、元になっている日時計の存在が頭に過ぎる。時間も言葉と同様、その時間で何をするのかといった内容や、複雑な思いが渦巻いていく。それを単に「計る」ことで解決するはずがない。

E・フッサールという哲学者が「内的時間」を問題にした。

単純な話、楽しい時には時間が直ぐに経ってしまうが、詰らないと何時まで立っても時間は進んでくれない。こういった経験は、誰にもあることだろう。

 

このような時間を、誰もが同じように過ごす筈がない。そもそも現代の時間と、古代人のそれでは価値観が全く異なっていたに違いない。

禅僧が覚るまでに今から見れば凄い時間がかかっているが、禅僧からすればそれが目的なのだから問題は一切ない。

 

アインシュタイン、ホーキングが研究した相対性理論を見れば、誰もが異なる時間を携えて、それぞれの方向へ旅していることはよく知られている発想だから、知っている人は多いであろう。知らなければ、調べてみてください。

 

すべてが動いているのに、なぜ自分を縛る?

私は葛飾に住んでいた時は6階だったので、よく早起きしては日の出を見ていた。冬は7時頃だから楽勝だが、夏になると5時前なので、とても起きられず見逃した(笑)。

しかもそのベランダから見て冬は右だったのが、夏には左と大きく昇る場所も違う。

 

地球は周り、太陽系も周り、銀河全体が回っている。

それなのに、地上というちっぽけな場所で、どうして電波時計を使って自己を縛り通すのか。それが、真に時間を守ることに繋がるのか。時間に煩いのはどうやらアメリカ人で、他は結構ルーズだったりする。

 

私に時差ボケはない。常に、自己を自己の時間に帰って来られるよう、暗示を掛けている。そう書くとカッコいいが、実は24時間、全ての時間に起き、寝たことがある、怠惰な人生を歩んだことが過去にあるからに過ぎないのかも知れない、笑。(続く)

 

9月の日の出

 

 

 

 

 

 

執筆者プロフィール

宮田 徹也
宮田 徹也美術批評/研究
1970年横浜生まれ。中学不登校、高校1年生を3回、2年生を3回やって中退。大検合格から自己推薦で和光大学に入学。6年かけて卒業、浪人を経て修士課程入学、普通に修了。街をさ迷い、批評活動を開始。専門学校、予備校の講師、大学の非常勤勤務。小さな新聞や雑誌、美術展のパンフレットなどに執筆。敗戦後日本前衛美術、ダンス、舞踏、音楽、デザイン、映像、文学、哲学、批評、研究、思想を交錯しながら文化の【現在】を探る。