なにがなんだか、ハンパないんだ

東京の中心、高層ビルが立ち並ぶ天王洲にあるセントラルタワーの1Fに、強大なアートホールがある。ここで7月27日まで開催されている「関直美の仕事展」のド迫力ぶりといったらハンパない。なにこれ?アート?彫刻?何がなんだかさっぱり分からないと感じるかも知れない。行ってみてくれ。その存在感に圧倒されるだろう。

 

関直美は1974年に多摩美術大学大学院を修了、94年の現代日本木彫フェスティバル大賞受賞、98年には文化庁海外派遣員としてアイルランドに滞在、2007年にもアイルランド現代美術館アーティストレジデンスプログラムで同館に滞在した。つまり、日本でも世界でも現代美術者として認められている存在なのである。

 

世界を変革するもの

美術の世界とは西洋問わず、古美術と現代美術に分かれる。現代美術も日展や日本美術院といった団体に属するアカデミズムと、フリーで活動するアヴァンギャルドに区別される。アヴァンギャルドなんて言い方は古いのだけれども、現代美術は現状どころか世界そのものを人間が自由に生きる為に変革することを目的としている。

 

つまり現代美術の主題とは、「いま、ここ」に生きるアーティストだけではなく我々も含まれる人間そのものを問うているのだ。この一文だけでも難しいかも知れないが、単純に考えれば簡単なことだ。私達は家族、友達、職場といったTPOに合わせた様々な顔を持つ。これって、昔の人から見れば分裂症だ。それだけ、現代とは複雑化している。

 

または、一筋縄ではいかないという難解な時代でもある。俺、仕事失敗していないのに責任取らされた。私が悪くないのに、理不尽な目にあっている。なんてことが日常茶飯事であろう。何かができなければ、次に進めない。資格、試験、昇格。どうしたら古代人のように、シンプルに生きられるのだろう。

 

アートは癒してはくれない

我々自身が複雑怪奇なのだから、現代美術が難解であることは当たり前であろう。我々は物凄い無理をして生きている。この無理を「癒して」くれるのがアートだという認識は、途轍もなく甘い。かといって「一緒に傷を舐めあおうよ」的な発想を、現代美術は携えていない。現実を現実だと客観的に共有できるのは、現代美術しかない。

 

そう、現代美術以外、全て金にマミレている。金にマミレているから現代美術だと思う方もいるだろう。鋭い。芸術をよく知っている。確かに現代美術は時には莫大な金額で取引される。ゴッホから村上隆、マスコミが騒ぐネタだ。そもそも現代美術は金では計られない価値を持っているからこそ、金で計るととんでもないことになる。

 

または、貧困に苦しむ国の国家予算でも届かないほどの値段が付けられる動向も、今日には存在する。そのような作品が、実際に現代の国際展、巨大美術館、アートフェア、オークションを引っ張っている。しかしそれは本当に現代美術であろうか。第一次世界大戦で人間が人間を殺すことに絶望し、希望を見出す為に現代美術は始まった。

 

ヤワにして、退かない

その元祖はスイスのダダ、ドイツのバウハウス、ロシアの構成主義であった。この現代美術の精神は、早くも1929年で解体し、1939年からの第二次世界大戦で消滅してしまったという研究も存在する。現代美術はアーティストと作品の権威をかなぐり捨てている。戦場を武器なしどころか裸で歩いているようなものだ。

 

だから現代美術は限りなくヤワだ。攻撃されても反撃しない。だからといってやられたらやられっぱなしではない。正当に、自らを主張する。その姿は第16代ローマ皇帝のマルクス・アウレリウス(121-180)のように潔い。本当の現代美術のアーティストは、お金を幾ら詰まれても、巨大な美術館で展示されても、新作を制作し続ける。

 

ニセモノを見分けるには?

だから注意したほうがいい。現代美術にはニセモノが一杯いる。ニセモノを掴まされたり、信奉したりすると、貴方の身が危うくなる。どうすれば見分けられるか。それが結構、簡単だ。作品から人間が浮かび上がるかを見極めればいい。つまり、現代美術とは貴方の自画像であるということが出来る。取り急ぎ、関直美だ。

 

関の作品を見るといい。素材は結束バンド、プラスティック、ビニール、アクリル、ボンドといった人工物と、木や鉄、石といった従来の彫刻の天然物の素材を並用している。関はアカデミックな彫刻の技法を充分にマスターした上で、自在な現代美術を追及しているので、作品の奥が深い。

 

サイズも掌に収まる極小のものから、人体よりも巨大なものまである。サブタイトルに「Inspecting-検証」とあるように、今回の展覧会に出品した作品は、新作はもちろんのこと、近作で埋め尽くされている。関は、自らの仕事を立ち会う者達に「検証」してもらいたいと考えている。私は凄いなあ!と感じたので、この記事を書いている。

 

ともかく、驚きだ!

何が凄いのか。圧倒されるからである。それ以外、何もない。なんだよ、おまえは批評家じゃなかったのか。何か説明しろよ!と怒られそうだ。まず私はヒエラルキーに満ちた「家」ではない。次に、私もまた権威はないのだから、読者に啓蒙しない。そして私は自らの蓄積した知識をかなぐり捨てて、初めて作品を見る「視線」を捨てずに作品と向き合う。

 

関の作品が良いな!と思うのに理由などない。古代の哲学者、アリストテレスは「哲学は驚きだ!」と言った。美術批評者としての私も、同じことを考えている。常に驚きを持つようにする。知らないことがあれば喜び、小学生が読むようなものから初めは勉強する。このような姿勢を保ちたい。ともかく、関の作品は驚きだ!

 

これまでの話を総合すれば、関の作品から現代の人間が焙り出て見えてくるのだ。私は関の作品を10年以上見ている。関はこれまでも自らの作品群にダンスや音楽を投入し、そこから新しい作品像を浮かびあがらせてきた。今回は7月6日に、セキカゼヒト(ヴォイス)とVictoria Shen(エレクトロニクス)によるコラボレーションを実現した。

 

反撥し、同調する

カゼヒトの肉声、ヴィクトリアのアナログ・エレクトロニクスは、正に関の作品の素材のように、天然物と人工物が溶け合った音楽を創造した。そして、関の作品そのものと融合と離別を果たした。かといって、彫刻と音楽が馴れ合った訳では決してない。時には反撥し自らを主張したかと思えば、同調する。この不安定さが面白かった。

 

コラボレーションの後に、私のトークがあった。私はコラボレーションをぼーっと見ながら上記のようなことを考えた。天然物と人工物。このギャラリーも正にそうだ。突如「東京砂漠」というフレーズが頭に浮かんだ。内田田洋とクールファイブの1976年のシングル曲。40年前に、既に東京は砂漠だった。ならば今日なんて砂漠以下ではないか。

人間であることを捨てるな

それでも今回の関の作品の素晴らしさを引き出したのは、この美術ギャラリーらしからぬギャラリーではないか。では40年後はどうなるのだろう。40年後でも、人間捨てたものではないぞ。そんなことをトークで一気に捲し立てた気がする。今日の状況に負けてはならない。人間であることを捨ててはならない。

 

パーティ、コラボレーション、トークを尻目に、多くの会社員が通り過ぎていく。その人達の全てがこの展覧会に興味がないわけでは、決してないのであろう。何かやっているな、ちょっとみてみたいな。でも、どうすれば「あちら側」に参加することが出来るのであろう。自分にその「資格」はないからまあ、いいかな。

 

こんなことを考えてくれた人がいるのであれば、ちょっと嬉しい。現代美術に権威は一切存在しないのだから、「資格」もいらない。いつでもウエルカムだ。しかし一番重要なのは、現代美術にこれから触れ合おうという人は、どうやって自分との「関わり」を見つけることにあるのだろう。そう思う貴方、是非ともこの展覧会に行ってみてくれ!人生変わるよ。

 

 

関直美の仕事展_Recent Works for five years by Naomi Seki「Inspecting―検証する」
7月3日(火)~27日 (金)
open8:30~20:00 (土・日・祝日休館)

https://www.e-tennoz.com/

執筆者プロフィール

宮田 徹也
宮田 徹也美術批評/研究
1970年横浜生まれ。中学不登校、高校1年生を3回、2年生を3回やって中退。大検合格から自己推薦で和光大学に入学。6年かけて卒業、浪人を経て修士課程入学、普通に修了。街をさ迷い、批評活動を開始。専門学校、予備校の講師、大学の非常勤勤務。小さな新聞や雑誌、美術展のパンフレットなどに執筆。敗戦後日本前衛美術、ダンス、舞踏、音楽、デザイン、映像、文学、哲学、批評、研究、思想を交錯しながら文化の【現在】を探る。