美術批評って、アヤシイよね

 

はじめまして!宮田徹也と申します。1970年7月生まれですから、もうすぐ48歳になります。おじさんですね。私は現在、長岡造形大学では美術研究者として「アートと社会」という授業を非常勤で教えています。また嵯峨美術大学では美術批評者として中間と最終の講評会を客員教授の立場で指導しています。

30代から学会で研究発表をしたり、美術館や画廊で講演会をしたり、小さな雑誌や新聞で展覧会評を書いたりしてきました。時には展覧会を企画して、美術と即興音楽やダンスのコラボレーションの導入もします。FacebookやTwitter、Instagramなんかも実名でやっているのでぜひ覗いて見てください。「図書新聞」で書評もやっています。

 

私が研究者であろうと批評者であろうと、そもそも「美術」は自分とは縁の遠い存在だと感じる方が多いのではないでしょうか。

どうすれば美術と「関わる」ことになるのだろう。美術館なんて面倒臭くて行かないし、画廊なんてどこにあるかわからない。デパートの美術画廊は敷居が高い。つまり美術って高級品でしょ?高級品なら他がいい。 そもそも「美術批評家」ということだけで怪しい。金と権力を独り占めして、根拠がないのに威張っているだけのような感じ。または「美の信奉者」的な、結局は自己流の発想で夢を見て人を騙しているような存在にも思える。アヤシイ宗教の教祖みたい。なんて印象が強いのではないでしょうか?

 

実際、世の中にはそういう批評家もいたりする(笑)。 私達はテレビを見たり本を読んだりする時に、コメンテーターや著者がどのような人間であるか、あまり気にしません。肩書が「どこどこ大学の教授」だけで信じてしまう場面が多々ある。大学教授になる為には本当に勉強と努力が必要だから、社会的地位があるのは当然だ。でも、大学教授ではなくとも優れた仕事をしている人は沢山いる。

 

©飯村昭彦

「優れた仕事」ってなんだ?

ここで脱線しちゃうけれども、じゃあ優れた仕事ってなんだろう?社長や官僚とか地位が高くて権威を持てること?年収が多いこと?医者や警察、弁護士のように尊敬されるようなこと?人には出来ないことが出来ること?

この価値観は十人十色だけれど、今日では結局「お金を持っている」ことで優れた仕事をしているかどうかを計られる傾向が強い。 確かに「優れた仕事」の価値観は、推移してきた。戦前であれば優れた軍人や浮世離れした文人、戦後では民主主義を実現しようと努力した人、教養の高い人、根性のあるスポーツ選手などが尊敬されたことだろう。

バブル経済崩壊後、我々は何に価値を置いていいのか分からなくなり、そのうちに「金」が規準となったのではないか。

今、車内で新聞どころか本を読んでいる人など滅多にいない。ほとんどスマホだ。例えば、これからの日本を良くしたいと思って難解な歴史本を読んでいる人がいるとする。頁を捲(めく)る拍子に、隣の人のスマホに触れてしまった。隣人がしていたゲームはゲームオーバー。隣人はムッとしている。

以前の見解なら、ゲームなんてどうでもいいじゃないかと感じる。 しかしその隣人が世界の人気ゲームの開発者だったとしたら、どうだろう。そのゲームが開発されれば、世界中のゲームマーケットが潤う。そのゲームの大切なチェックの最中に先ほどのハプニングが起きたとしたら、今の世の中、誰もが「出来もしない日本の革命」を空想している者のほうを批難し、現実的なゲーム開発者の悲劇に共感するだろう。

そのように世の中が変わってきたことに対して、私は憂いない。むしろ当然の成り行きであると言うのも必要だ。実際、これまでの知識人は一生懸命勉強したかもしれないが、ちょっと威張りすぎた。勉強ができない者、しない者達を馬鹿にしすぎた。自分たちだけが特権を持っていると思い込みすぎた。これは改善されるべきである。

だからといってゲームマーケットで利潤を追求するだけというのも、これまたどうなのだろう。ゲームだけの問題ではない。

「利潤を追求すること」。それはどこの業界でも一緒である。でなければ、企業は成立しなくなるからだ。当たり前だ。

しかし「利潤の追求」を第一にするのが当たり前になったのは、いつからだろうか。 そもそも私達人間は、ナゼ生きているのだろう。ナンノタメニ存在するのであろう。これまで何をしていて、これから何をすべきなのであろう。そんなようなことを、考える必要があるんじゃないだろうか?

 

メンドクサイことを考えろ

なんとメンドクサイんだ。自分さえよければそれでいいじゃないか。しかし、自分さえよくなるためにも、周りのことはやはり考えなければならない。 私達の心臓は動いている。体と脳が働くためには、食事や運動をしなければならない。

私達には感情がある。我慢することもあれば、欲望を剥き出しにすることもある。いずれも、やはり「利潤の追求」のためではない。

生きることとは「人間力を鍛える」ことにあると私は思う。こういう発想が、これまでの教養主義と異なることも、いずれ説明する。

どうでしょう。ここまで楽しく読んで戴けましたか?興味が沸きますか?何時になったら美術の話になるか分かりません(笑)。これからもどんどん話は飛んでいきます。共に、この不可解な世界の糸をほどいていきましょう。

こんな感じで連載を続けていこうと考えております。次回もよろしくお願い致します!(続く)

執筆者プロフィール

宮田 徹也
宮田 徹也美術批評/研究
1970年横浜生まれ。中学不登校、高校1年生を3回、2年生を3回やって中退。大検合格から自己推薦で和光大学に入学。6年かけて卒業、浪人を経て修士課程入学、普通に修了。街をさ迷い、批評活動を開始。専門学校、予備校の講師、大学の非常勤勤務。小さな新聞や雑誌、美術展のパンフレットなどに執筆。敗戦後日本前衛美術、ダンス、舞踏、音楽、デザイン、映像、文学、哲学、批評、研究、思想を交錯しながら文化の【現在】を探る。