著作権教育は情報教育である

ABOUTこの記事をかいた人

久保田裕

久保田裕

コンピュータソフトウェアやデジタルコンテンツの著作権保護、情報モラルについての専門家として、全国の講演会等に招かれ、講演を行っており、講演先は、企業、大学、団体、教育委員会主催研修など多岐にわたる。

また、山口大学特命教授、文化審議会著作権分科会臨時委員、同分科会国際小委員会専門委員、特定非営利活動法人全国視覚障害者情報提供施設協会理事、(株)サーティファイ著作権検定委員会委員長、特定非営利活動法人ブロードバンドスクール協会情報モラル担当理事などを務める。 著書に「AI×クリエイティビティ:情報と生命とテクノロジーと。」(共著、高陵社書店)「人生を棒に振る スマホ・ネットトラブル」(共著、双葉社)、「情報モラル宣言」(ダイヤモンド社)など。

1.はじめに

 

私は、一般社団法人コンピュータソフトウェア著作権協会(ACCS)で、コンピュータプログラムとデジタルコンテンツの著作権保護活動を行ってきた。その土台は「法」と「電子技術」と「教育」の三位一体の対策がバランスよく行われることが必要だと考え、特に教育については積極的に取り組んできた。しかし、著作権教育を進めるためには、著作権を教えるだけでは足りず、肖像権、パブリシティ権やプライバシー権など周辺の法益まで含めた知識が必要になる。では、著作権法とその周辺の法益を教えれば十分かと言えば、そうではなく、そもそもそれらの法律が守ろうとする情報の価値そのものを知り、理解する必要があると考えるようになった。

では、情報の価値とは何か。そもそも情報とは何か。

そんなことを考えていた10年近く前、情報学という学問があることを知り、当時東京大学教授であった西垣通先生が主宰する基礎情報学研究会に参加するようになった。未だにその概念や情報学の曼荼羅を正確に理解できているわけではなく、その答えは見つかっていない。けれども、情報とは何かと考え続ける姿勢が大切だということは深く受け止めている。

2019年、青山学院女子短期大学現代教養学科准教授で青山学院大学シンギュラリティ研究所副所長の河島茂生さんとの共著で、『AI×クリエイティビティ:情報と生命とテクノロジーと。』(高陵社書店)を上梓した。その出発点はなぜ著作権への理解が国民に普及しないのだろうか、ということだった。

私は30年にわたり、著作権保護活動においてその保護対象である著作物という概念やその種類、そしてその周辺に位置する情報の価値や意味について考え、その理解を深める努力をしてきたつもりだ。だが、正直、自分自身の本質的理解は進んでいるのかという反省と理解の深まらない自分に嫌気がさしているところであった。

この本では情報とは何か、主に、著作物という情報の価値や意味を問いかける過程を苦しみながら文章にしてみた。そして、情報について考える上で、敢えて狭い範囲の著作物について考えることは案外、大事なプロセスではないかと考えるようにもなってきた。

この本の内容とも少し重複するが、このことについて書いてみたい。

 

2.情報の本質

 

私の所属するACCSが行ってきた出張授業や講演などの教育活動は、当初、著作権についての知識が日本国民に全くないところからのスタートだった。最近では著作権の存在は常識となり、技術家庭や情報の科目の中に著作権の項目が組み込まれている。講演要請の内容もICT機器の普及に伴い、インターネットやSNSの安全な使い方にも及んできた。

子供たちはSNSなどのインターネットのサービスを上手に使いこなし、そのメリットを享受しているが、一方で、SNSやインターネットなどの機能や特性を理解しないまま使ってしまうことで、思わぬ被害や事件に巻き込まれるケースも相次いでいる実態がある。こうした現実を見て、私はこれまで、学校現場で行われている著作権教育の課題と、複雑化する情報社会の教育のありかたについて考えてきた。犯罪被害や情報トラブルを避けるため、最も大切なことは、やはり教育なのだと。

こうした思いを持ちながら学校現場で著作権の講演を行うなかで、私は先生方の疑問や興味が著作物だけでなく、プライバシー、個人情報、ヘイトスピーチ、フェイクニュースなどそれぞれ法益の異なる情報にあることに気づいた。だが、それらの取り扱い、行動指針はバラバラだ。インターネット上の多くの情報が著作権法の保護対象だが、デジタル形式で情報が流通している現在、著作権や著作権法だけを伝える教育には限界があったのである。

たとえば、人物が写った写真を撮影者でない人がインターネット上にアップロードすることは、撮影者の著作権を侵害する行為だが、同時に、被写体の肖像権も侵害してしまう。同じように自分の日記を公表することは、著作権の問題にはならないが、内容によっては他人のプライバシーを侵害し、名誉毀損や侮辱罪に該当することもあり得る。政治的意見のつもりでも、ヘイトスピーチのように表現の自由を逸脱することもある。

こうしたことから、著作権だけではなく、肖像権やプライバシーといった権利に関することや、セキュリティやネットマナーまで含めた情報モラル、情報リテラシーの重要性が着目され、2003年度から高校では「情報」という科目がはじまった。

つまり、学校での著作権教育は、著作権単独というよりは、情報モラルを構成する重要な要素として行うことが多くなってきた。そして、情報モラルを身につけることで、犯罪被害を避けることができるばかりでなく、他人の発信する情報を吟味し、より良く活用しうることができ、かつ自らの情報発信を適切に行うことができる。その点で、著作権は情報発信の重要なルールではある。

そうであるなら、その情報の受発信をするための前提となる知識や態度の育成を通し、著作権の本質的意味や価値すなわち「著作権はなぜ保護されるべきなのか」という理解を深めることこそが重要だ。

ところが実際には、それらを教える教育は十分に行われてこなかった。その上、高校をはじめとする学校では、教科「情報」の目標の1つである「情報活用の実践力」が、「IT機器活用の実践力」と誤解され、ワープロ、表計算、プレゼンテーションソフトを使えるようになるための授業が日々行われ、まさに「パソコン教室」になってしまった。この背景には、情報の教員資格免許が急造であったこと、その後の教員研修制度の質の悪さなどが指摘されている。

一方で、数学的、情報工学的授業が行われている学校もある。確かに、IT機器の活用やプログラミング教育などもすべて情報に関わることだ。しかし、それだけでは情報の本質に迫ることはできない。残念ながら新しい学習指導要領でもこの部分の強化が中心のようで、要するに、教育現場では情報教育イコール、コンピュータ教育となってしまい、情報社会に参画する態度の育成と言いながら、人間同士の情報交換、コミュニケーションについての考察、検討がなされていないのである。

つまり、今、学校教育で求められる情報の本質を理解するための手段として、工学的なアプローチだけでは不足ではないだろうか。

では、どう教育するのが、情報の本質を理解する近道なのだろうか。

それは、「創作」の価値を理解することではないかと私は考えている。

 

 

3.創作の価値を知ること

 

先に触れた『AI×クリエイティビティ』の中でインタビューした漫画家の松本零士先生が、「創作は体験に根ざす」「コピーは冷たい」と発言されている。私がこの言葉を初めて聞いたときの衝撃は圧倒的だった。人間の認知は主観的なものであり,同じ刺激を受けても感じ方は千差万別。同じ事象であっても人は観察の仕方,感じ方が違うので,必ず異なった表現になる。その人の感性や個性が表出されていれば,創作性がそこに生じるということだ。

「創作は体験に根ざす」という言葉はまさに身体感覚を通じて人の内部で生命情報が形成され、その後言語やその他の表現手段によって社会情報として創作物すなわち著作物が生成されることを端的に表している。

そもそも教育現場では、児童や生徒,学生たちが創作する作品を評価の対象としてではなく、その意味や価値を理解し、さらにその創作、創造を増幅させるために教育がなされているのだろうか。そのことに気付けば、彼ら彼女らにかける言葉も大きく変わっていくのではないか。プログラミング教育も,単に論理を学ぶのではなく,創作を学習する一環であると捉えられる。教育の本質を自らが問い直すことにもなる。質の高い豊かな情報に触れ、多様な創作、意見を発信することで、情報社会に参画し貢献する。そういった人づくりこそが情報教育の要になるのではないか。

情報の本質を理解するために敢えて狭い範囲の著作物について考えることは案外、大切ではないかと冒頭に書いたのは、このことだ。

著作物の本質である創作、あるいは創作活動の価値を知り意味を知ることが、情報の本質を理解する重要なアプローチ方法だと考えるのだ。創作物が著作権法で保護されるなら、著作権を勉強することが創作の価値を理解することにつながり、それが情報の本質を理解する、もしくは情報の意味を考え続けることになるのではないだろうか。

情報学の世界では、著作権法が保護する社会情報は,人が持つ生命情報が表出されたものだ。著作権法という法領域の奥底に潜む、生命情報に焦点をあてる。自分の生命情報だけでなく、すでにある先人たちが創作した小説、論文、絵画、音楽、映像、コンピュータソフトなどの社会情報を交え、新たな創作、創造、製品・サービスを作り出す。そのような理解をすることで、「創作」「創造」と「情報」、「著作権教育」から「情報教育」までが首尾一貫した話としてつながるのではないだろうか。

そのつながりをしっかり頭に入れておけば,「~してはいけない」というダメダメ教育から脱し、それら情報の意味や価値を知ることをうながす教育となるはずだ。

 

4.情報が伝わらないからこそ

 

さらに、意味、価値を伝えるために、表現と伝達手段であるメディアという観点は重要だ。実際、著作権法の変遷も新しいメディアの出現によって改正されてきた歴史がある。さて、自らが行った表現は、これで正しかったのだろうか。さらに他者にその意図や意味は正しく伝わっているのだろうか。そのメディアの選択は適切だったのであろうか。情報は、意図したとおりには伝わらないからこそ、相手の身体性を伴った主観を想像し、常に自分の表現、その伝達手段は正しいのかを問うことが求められる。

主観的な存在である人々がその意味や価値を同等に理解することが不可能である以上、メディアをフルに活用し、相手に可能な限り寄り添うことが必要だろう。だからこそ、私は、口調、文体、フェイストゥーフェイス、手紙、メール、など様々な伝達手段の組み合わせを考えることや、言葉の力をつけるための国語教育、ダンスや演劇などの身体性を伴った表現教育が重要なのではないかと考えている。

私は、20年以上都内のラグビースクールのコーチや世話役を続けているが、団体スポーツを通してのコミュニケーション教育なども情報教育の中核と位置づけられる。

複雑になる情報社会を生きるためには、その社会システムを批判的に捉える英知を養う必要がある。そのためには、じっくり他者の情報を傾聴、吟味し、継続的に考える力をつけていくしかないのではないか。

 

 

5.著作権法の正しい理解の先にあるもの

 

コロナ対策から急激にICT遠隔授業確立が叫ばれているが、知の伝達という教育の本質を見失うことなく、ネットやタブレット等の端末活用を慎重に普及させるべきである。平成30年著作権法改正により創設された「授業目的公衆送信補償金制度」は令和3年度以降本格的運用を目指すことになり、令和2年度は、4月28日から新型コロナウイルス感染症の流行に伴うオンライ授業の要請に対し、緊急かつ特例としてその補償金額を無償として運用を開始された。知の殿堂である大学でも、その整備は遅れていることがはっきりと露呈した。

とりわけ、初等、中等教育機関のハード面、ネットワーク環境の整備実態を目の当たりにすると、コンピュータ教育さえ、どのような環境で行われていたのか推察すると情けなくなる。今まで、ICT教育が普及しない理由を、著作権法があるために、著作物を自由に使えないと、声高に言い続けてきた教育関係者や為政者に猛省をうながしたい。知である情報へのアクセスは様々なメディアが担っていることを忘れてはいけない。私が知る限り、正しく著作権法を理解していれば、知の伝達が萎縮して情報が流通しないなどありえない。合法であれ違法であれ情報は漏れ、流通するのである。まさに「王様の耳はロバの耳」なのである。

多様な情報の価値や意味を知るためには、まず、著作権法の保護対象である著作物すなわち「人間にしかできない思想または感情を創作的に表現する行為の結果生み出される情報」について深く考察し、哲学することなのである。

最後に、著作権法第1条は、その目的を文化の発展に寄与することと規定している。

 

ABOUTこの記事をかいた人

久保田裕

久保田裕

コンピュータソフトウェアやデジタルコンテンツの著作権保護、情報モラルについての専門家として、全国の講演会等に招かれ、講演を行っており、講演先は、企業、大学、団体、教育委員会主催研修など多岐にわたる。

また、山口大学特命教授、文化審議会著作権分科会臨時委員、同分科会国際小委員会専門委員、特定非営利活動法人全国視覚障害者情報提供施設協会理事、(株)サーティファイ著作権検定委員会委員長、特定非営利活動法人ブロードバンドスクール協会情報モラル担当理事などを務める。 著書に「AI×クリエイティビティ:情報と生命とテクノロジーと。」(共著、高陵社書店)「人生を棒に振る スマホ・ネットトラブル」(共著、双葉社)、「情報モラル宣言」(ダイヤモンド社)など。